小学校時代 成績は真ん中へんだった
1と2はなかったが
3と4ばかりだった
5はひとつもなかった
至って普通の小学生だったと思う
小学校3年のとき
父の仕事の都合で沖縄に転向した
まばゆいばかりに白く光る大地に驚いた
海の色はそれまで知っていた緑色とは違うものだった
南国を象徴する透明で済んだ青に光っていた
車はまだ左側通行だった
街には英語の看板が溢れていた
遠くに目をやると柵で仕切られた向こうに
米軍基地があった
芝生の緑がどこまでも広がっていた
全ての景色は今までのものと明らかに違っていた
その向こうに海が見えた
民家は赤瓦の琉球スタイルものだった
ここはまさに異国の地だった
裏通りには一銭町屋があった
おばあは入れ墨をしていた
何もかもが衝撃だった
始めて飲んだ米国産のジンジャエールの味は濃かった
母親とやきいもを屋台で買ったら
中が黄色ではなく紫だったのにびっくりして
腐ってる!と文句をつけたらおじさんに笑われた
バターをつけてかじるとうまかった
母親が運転する車にのって
海を眺めながらドライブした
昼の海も夕暮れの海も美しかった
砂浜はいつも白く光っていた
波はいつも穏やかだ
夜には満天の星が現れた
ガジュマルの木はひげを蓄えていた
年齢を重ねた老人のように感じた
かたつむりは気持ち悪いほどでかかった
小学校に転向したらみんなが見に来た
その頃ナイチャーは珍しかったからだ
まだ緊張して固まっていたら
肩をたたかれて「えーっ、えーっ」と言われた
意味が分からなかったので、余計に身体を固めた
「えーっ」とは「ねーっ」のことだった
言葉も違った
何もかもが違った
ここは異国の地だった
授業中すぐ上空を米軍の飛行機が飛んでしばしば授業が中断された
小学生たちが乗っていた自転車はモンキーというアメリカンばかりだった
クラスの3分の一がバク転ができた
自分はできなかった
だけど前方宙返りは一番だった
誰よりも高く回転も速かった
学校の成績は急に上がった
別に努力したわけではない
地域レベルが違っただけだ
だから相対的に上位にランキングされた
それで勝手に少しだけ自分に自信がついた
小学校4年の1学期に3だった図工は2学期に4になった3学期に5にあがった
それと同時に他の科目の成績もぐんぐん上がった
そのころ家で宿題をやることも苦ではなかった
文字を2重書きして楽しんだ
マンガもよく描いた
そのころ自分の中で変化があった
目で見ている景色があるとする。
すると、それを同時に向こう側からこちらを見ている景色が浮かんでくる
ぼーっとではない。手に取るように見えるのである
そんな感覚が気持ち悪かった。
少し物事が立体的に見える。だから絵が上手に描けるようになった。
画家になりたい気持ちが芽生えた。
小学校5年の頃、父の都合でまた家族で本土に戻った。
父親は通産官僚だった
小学校や中学校のころ
テレビで何度も見かけた
中学生になった。
中学では、なぜか成績が良かった。
特に努力した気持ちはなかった。
常にクラスでは一番だった。
成績はいつもオール5だった。
歴史の教科書はほぼ暗記していた
見なくても空で復唱できた
泳ぎは水泳部のやつより早かった
作文は入賞し、描いた絵は校長室に飾られた。
だから自分の作品は一枚も手元にない。
絵に対するエネルギーはその分少し減っていたのかもしれない。
だけど、美術が一番好きだった。
中学2年からギターを始めた
正確には勉強してるふりをしてこそこそ練習した
テープレコーダーで曲を流してコピーしてスキルを磨いた
だからそのエリアでは私が一番上手かった
特にギターソロの速弾きは私が一番速かった
試験は100点以外はほとんどとったことはなかった。
中学は学年トップ成績の総代となって卒業した。
まさに優等生を絵にかいたような中学時代だった。
後から聞いたことがある。
美術の先生が何度も家を訪ねてきてたらしい
この子は特別な子だからぜひ画家にしてほしいと
私は何も知らなかった
日展にもつながる有名な先生だったらしく
自分の人生の中でも秀逸な才能だと言われたらしい
まれに見る天才だから将来は保証するとまで言われたそうだ
だけど、親はそんな未来像には興味を持たなかった
親は私を官僚にしたかったようだ
だから、知らぬまに絵をあきらめさせられたということだ。
渡邊家長男一人息子には普通の人生を歩ませたかったようだ
だけど別に親を恨んだことなど一度もない
文句もなかった_親の心も否定する立場にないと思ったし
その頃ギターの方が面白かったからだ
ただ悔しいからもう一枚も描いていない
高校に入った
電車に乗って60分ほどかけて通学した
電車の中でタバコを吸ってワルを気取った
中学では成績が良かった分だけ
そのころ勉強にはすっかり興味を失っていた
あんなものは誰でもやればできるとしか思えなかった
煌々にはトップ10以内の成績で入学したそうだが
あれよあれよという間に300番近くまで落ちていった
近くの工業高校のつっぱりにガンをつけ
先生をからかい、授業中抜け出して学ランのまま喫茶店でタバコをふかした
昼休みには学校近くの駐車場でうんこ座りをしてふかした
ここには書けないほど悪さをした
でもその悪さは自分にとって男の美学のつもりだった
誰もできないようなやばいことをできるのが勇気の証だと感じた
学校にはばれないようにうまくやったつもりだが
案の定、立教大学の推薦は落ちた
推薦なのに落とされることなんかあるはずがないのにだ
仕方なく浪人する羽目になった
仲間が早稲田予備校に行くと言うので自分もそこにした
また勉強することになったが気にも留めずほぼ毎日遊んでいた
自習室では気に入らない奴を便所に呼び出して締め上げた
翌年受験に臨んだ
滑り止めで受けたはずの大学には落とされた
明治、成城、青学は落ちた。
誰よりも早く答案を提出して余裕を見せることで誇りたかった
さらにガキが棒でうんちをつついている絵までおまけでつけてあげた
だから、ことごとく入学不可となったのだろう
今考えれば、そんなふざけたやつは入れたくない
早稲田の入試だけは最後だったので余計なことはしなかった
だからここに入った。
明治学院大学も受かったがそこよりも普通は早稲田の方がいいだろう
だから結局早稲田大学に入った
でもほぼ学校には行かずバイトに明け暮れた
親からもらった車を乗り回して毎晩深夜の渋谷に繰り出した
HUBで酒を煽ってナンパして調子に乗った
最終電車が行った後の深夜の街の空気はすがすがしかった
静かになった街のところどころに残るネオンの光がやけに情緒的だった
白々と明ける頃に、一番乗りで動き出すのはカラスとゴミ回収車だ
バンドもやった。もちろんロックだ。
かつての不良はロックに限るからだ。
サークルにも入ってみた。メンバーと時々練習もした
サークルは周りがへたくそすぎて馬鹿にしていた
だからこれもすぐに止めた
心のなかではプロミュージシャンになりたかった
だけど、他のメンバーは本気じゃなかったから
次第にその夢も薄らいだ。
だいたい毎日つるんでいたタカは明治大に通いながら
笑っていいともの美少年コンテストで優勝するほどの顔立ちをもっていた。
栄一には、付き合ってた女をくれてやったこともある。
マチコはかわいいな。いいなというからくれてやった。まあ、もういらなかったし。
あいつ人妻だぞ、この前なんか、寝てたら亭主が帰ってきて、頭蹴とばされたよ。
それでもいいと言うから、どうぞと言って、家の鍵を渡した。
そのおかげで、栄一は筆おろしができたと喜んでいた。
なんか人助けができたと少し嬉しく感じた。
音楽は止めて、今度は「ME HER CLUB」というサークルを作った。
ミーハーというのは、流行や話題のモノに熱中する軽い奴をさす言葉。
だから、スキー、テニス、サーフィンなど、
当時流行していたレジャーをみんなで楽しもうというサークルだ。
タカを誘って、女子大の前で勧誘させた。
タカの後輩のイケメン連中も幹部に加えて勧誘させた。
そうして入会費を集めるのだ。
斑尾高原スキー場では風船を大量に撒いて出入り禁止を食らったし、
あちらこちらのディスコクラブを借り切ってパーティを催した。
当時貸切が30万円くらい。会費3000円で参加者を数百人集めるというしくみだ。
表参道のキーウェストクラブでも貸切ダンスパーティをやった。
当時、このカフェは皆が憧れるほどの最先端だった。
ここが一番粋でカッコよかった。幹部は2階のVIP席で気取って乱痴気騒ぎをした。
私にとっては、サークルという名のちょっとした小遣い稼ぎでもあった。
ある晩、高田馬場のパブで飲んでいたら、TV関係者と知り合いになった。
その人がプロデューサーだったかディレクターだったかは覚えていない。
だけど、収録番組の観客席に座る人がまばらで困っているという話だった。
私はとっさにサクラなら数十人単位で用意できますよ。いつでも連絡ください。と告げた。
それで、サークルのメンバーに連絡をとって無料で番組観覧できると誘うのだ。
私にはひとりいくらでその分のお駄賃が後で入るというしくみだ。
キンキンの番組が多かった。
他にもいろいろな番組に送り込んだがもう忘れた。
まあ、ゲーム感覚のマネーゲームだった。
その後、このサークルはリエという女をタカと私で取り合いになって自然消滅した。
大学にはほぼいかないが、試験だけは受けた
そうしないと単位が取れないからだ
大学2年の頃親父は虎の門病院に入院していた
時々車を走らせて国会議事堂前を通って見舞いにも行っていた
7月3日は親父の誕生日だったが試験の日だったので知らん顔していた
試験会場の教室でこれから始まるっていうタイミングで
ドアが開いた、なんだ?と見ると
そこに訪れたのは自分の従妹だった
私は従妹に目を疑った
親父が危篤だから早く来いと伝えに来てくれたのだった
当時は携帯電話なんかないからこんな感じになるのだ
試験はそのままばっくれて虎の門へ急いだ
病院に着くと親戚一同がベッドを囲んでいた
管に繋がれてもうすっかり話せる状態ではなくなっていた
親父は声にならない声で「ありがとうございました」と言った
最後の言葉は医者に対しての一言だった
その後足元にいた私の目を見続けた
次第に焦点が合わなくなっっていった
ベッドサイドのモニターは横一直線になった
親父は誕生日当日に死んだ
私は「死んだその日がたんじょうび~!」という歌があったのを思い出した。
そのあと、しばらくして早大東伏見寮に入った
寮費は自治会費月500円。
収入の少ない貧乏人しか入れない福祉的な施設だ
実のところ、金に困って入寮したわけではない。
高田馬場のアパートを引き払って
田無(現:西東京市)で同棲生活を始めたのだ。
車は広い敷地の一角に自由に停めることができた
私はバイトにあけくれながらのほほんと過ごした。
ディスコのボーイやホストクラブもやってみた
それにしても、キャバクラのスカウトマンはきつかった
女性に声をかけ店を案内し勧誘する仕事
新宿駅からアルタの横を通って歌舞伎町に通じる道を中心に
地下道も徘徊していい女をあさった
警察にもヤクザにも追い掛け回された
地下通路の境目には鉄板が張られているのだが、
その鉄板一枚で縄張りが仕切られているのである
自分は街のゴミと称してふざけているような感じだった
ただ一人の人間として生きてると言う実感だけは感じた
毎日街中に立っているとおしゃれに興味を持つようになる
同じ服を着てるようだけど、何かが違う
いったい何が違うんだろう?
一生懸命におしゃれしてる気持ちはわかるけど
こいつはなんだかダサい・・違うんだよな・・
それでこっちは一見普通なんだけどカッコいい
醸し出す雰囲気が違うんだよ・・何が違うのか?
そんな感じで毎日これを研究するようになった
そのうちに、自分の中でファッションは自己表現のアートに変わっていった
女性関係がめちゃめちゃだったので、
そう長くない期間で同棲生活は終わった。
そうして私は鎌倉の実家に戻った
母親と二人の生活である
母はテニスを時々楽しみながら自分の親の面倒を見ていた
その頃私はいわゆる青春を謳歌していた。
大学4年になり就職活動をするようになるが
その頃、私はファッション業界しか頭になかった。
その昔、一度だけ父親に「将来どうするんだ?」と聞かれたことがあった。
ファッション業界と答えると、鼻で笑われたことを思い出した。
男なら世界をまたにかける仕事をしたほうがいいんじゃないか?
と言われたことがあった。
それでも、ファッション業界は粋なアートの業界に映っていた。
何と言ってもカッコよかった。ただそれだけだった。
私はなんとなくデザイナーになりたかった。
スタイル画は独学で描いていた。
だけど、専門学校にまじめに通うほどのエネルギーはなかった。
きっと調子に乗っていたのだろう。深く考えることはしなかった。
当時一番輝いていたのはBIGIグループだった。
だから、そこがいいなと感じた。
大楠裕二氏率いるDCアパレルは業界のカリスマ企業だった
社員は芸能人と付き合ったりフライデーに登場したりしていた。
ただ、大学生人気企業ランキングではトップ10に入っているほどの企業だった。
うっかりして履歴書応募提出期限に間に合わなかったので、
直接社長室に赴いてどうしても入りたいと直談判に言った
秘書の方が対応して次回の説明会に参加していいことになった
ワールドは担当者の雰囲気も合わないと感じたが、案の定、落とされた
バイヤーとしてのニューヨーク勤務にも内定が出た会社もあったが
母親ひとりを残すわけにいかないという理由で断った
BIGIグループ面接では、幹部たちが机に脚を乗せてサングラスを外さないまま面接を受けた
びびるほどカッコよかった。
一言どうぞと言われたて「私を落としたら後悔することになる!」と言った。
「おまえおもしろいな」と笑われたがそれで印象に残ったのだろう。
大楠裕二氏は直接私にいくつか質問してくれた。
モットーはと聞かれて、親父に言われていたことを瞬時にパクった。
今日やることはその日のうちにやると伝えたら、うなずいてくれたのを覚えている。
そして、めでたく入社した。
配属の希望を出したが、おまえは女好きそうだからという理由でメンズに回された。
そして、仕事と遊びを一生懸命にやった。
毎月の給与はその大半を服に使った。
社販価格で安く買えるので相当な量を買った。
靴下一枚気に要らないだけで、家に戻って着替えることもあったほど
狂信的にファッションを好きになった。
まさにそれは微妙なニュアンスまでを表現できるツールだった。
夜も終電を逃すほど遊びまくった。
でも、毎朝誰よりも早く出社した。
ごみを捨て、机をふいて、掃除をして、届いていたファックスを担当者に分けた、
周りが出社するころには朝のルーティーンはだいたい終わっていた。
昼前には先輩たちの弁当の手配までした。
なんでも率先してやった。すべてが学びだと心の中で理解していた。
出世欲もなかったが、せっかく入った会社にはただ貢献しようとした。
生産する枚数を決める数だし会議というのがあって、
もっと売れるはずです。残ったら全部買い取るから作ってくださいと掛け合ったこともあった。
高原さんにはかわいがってもらった。
疲れてペースが落ちたら、他の作業に変えろと教えてもらった。
鎌田さんには、人としてのあり方を教えてもらった。
飲みにいっても上司が帰るまで帰ってはいけないと教わったし、
終電が無くなっても朝まで付き合う覚悟がないやつはぼんくらだとも教わった。
他にも自分を育ててくれた先輩や上司には今でも感謝を忘れることはない。
ある日、昼休みの帰りに木村常務が部長と立ち話しているのを耳にした。
「東京大丸の売上はまずい。前年割れしてる。
販売スタッフを入れ替えないといけない。どうするか?BMDに頼むか?」
と聞いてしまったのだ。
私は翌日、「販売を自分にまかせてもらえませんか?」と直談判に言った。
でも、「お前うちの社員だろ。」
「いや、うちのカミさんを立たせますから。あいつサブまでは経験ありますし・・・」
「一人じゃできないよ。ほかのスタッフはどうするんだ?」
「なんとかしますから・・」
「まあ、考えてみるわ・・」
そんな流れで結局OKが出た。
スタッフなんか他に誰もいなかったので、
すでに会社を辞めていた後輩の岡村に頼んだ
岡村はバンタンでデザインの勉強をしていた。
だから、アルバイトできる女子はいないかと頼んで数名を集めた。
払う給料はなかったので、冬のボーナスを使い切ってそれに充てた。
売上は好調だった
前年対比が250%を超え、前年対比ナンバーワンを摂ることができた。
だから、少しだけ認められた。
アパレルメーカーの先輩はすぐに辞めるものだ。
でも他の会社でまた同じようなことを繰り返すのが普通だった。
だから、その頃、やめた先輩からも、「この店やらないか?」と持ち掛けられるようになった。
いい成績を取り続けたから、向こうからどんどん話が舞い込んでくる。
そうしてたった1年でスタッフ50人を抱える会社に成長していった。
でも、私はそのまま会社勤務を続けて、同時に会社を経営する日々だった。
そんな中、ある日突然、母親のガンが発覚した。
元気そうに見えていたが、実は余命が長くないことがわかった。
私は、会社に長期休暇を願い出た。当然給与はなくなるが特に問題なかった。
それから、毎日入院先の病院に通うことになった。
この頃には携帯電話が普及しだしていたので、遠隔で会社に指示を出した。
給与はなかったが取引先にも電話をして細かな調整を続けた。
自分の環境で周りに迷惑をかけることだけは避けたかったからだ。
こういう状態でも生活できたのは当時のカミさんのおかげだった。
彼女が稼いでくれていたから成り立っただけのことである。
そして、27歳の時、母は他界した。
会社に戻ることも考えたが、この際、このまま独立するという道を選んだ。
まだ20代の若者が最も調子に乗る時期を迎える。
本業の年商は10億にはすこし足りなかったが、金が回ってくるようになった。
仕事といってもやることは、オープンカーで店を回って、スタッフに声をかけるくらいだった。
百貨店は裏口から入らなければならないのに、社長ずらして偉そうに表玄関から入った。
40~50代の管理職は私に頭を下げて敬礼した。
毎年、クラブを借り切って取引先を招いてパーティーを開いた。
店に行けば、一番高いやつを注文し、欲しいものは何でも手に入れた。
渋谷区富ヶ谷に自社ビルを買って、札びらを切って豪遊した。
アルファロメオで車屋に乗り付けて、キャッシュでポルシェを買ったこともある。
サンディエゴにも別荘を買ったし、タイにもしょっちゅう遊びに行った。
ちなみに母親の死亡保険金は商品先物取引に手を出して1か月でゼロにした。
先物取引はまじでやばい、関わらないほうがいい。
私は金にロング(安値で買って高く売る方針)で投資したが、逆に動いたから仕方がない。
現物をそのまま手にしていたら、投資した2500万は6億以上に化けていたはずだからそう考えると少し悔しい
オリエントとかいう先物取引会社の担当者だった原田とは仲良くなった。
ある時、原田が困ってると言って連絡をしてきた。
事情があって、どうしても銀行口座を貸してほしいと言われた。
悪さに使わないならいいですよと、私はほぼ残高の無い使用していない通帳を差し出した。
困っているなら役に立ちたいと思ったからだ。
それで、その後、原田に渡した銀行通帳のことはすっかり忘れてしまっっていた。
その頃、先物取引会社から勧誘の電話がたくさんあった。
突然に自宅を訪ねてくる者もいた。
「先物なんかやらないよ。どこでオレのことを知ったの?なんで突然ここに訪ねてきたの?」
と言っただけで、「すみません。勘弁してください!」と土下座するような奴もいた。
どうやらその業界で私は「表に出ない裏の仕手筋」として勝手に有名になっていたらしい。
まあ、気にも留めずにその後も普通に毎日を過ごしていた。
ある日築地警察から呼び出しがあった。いろいろ話を聞きたいというのだ。
私は何も悪いことなどした記憶がないので、それに応じた。
真っ赤なポルシェのオープンカーで築地署に乗り付けたのを覚えている。
警察署のエレベーターの中で、刑事らしき人から突然声をかけられた。
「渡辺だろ?石鹸と洗面器持ってきたか?」「はあ?何言ってるの?何の話?」
と睨みつけたが、そいつはにこりともせずにそっぽを向いた。感じ悪い奴だった。
取調室では、原田の話をされた。壁のミラーの向こうからも見られている気がした。
最初、私には何の話か全く分からなかったのだが、要するに原田が捕まったらしい。
数百億の横領事件で捕まったそうだ。
「へえ、そうなんですね。そんな悪い奴なの?いい人だと思ったけど・・・」
テレビのニュースにも逮捕の瞬間の映像が出ていたらしい。
私は何も知らなかったが、その横領事件はすべて私の名前で行った取引だったらしい。
その時は事情を理解してもらったのか、結果的には何のお咎めもなかったが、
どうせ、あのポルシェもその金で買ったんだろ?とかお前の資産も調べてあるんだよ!とか
散々嫌味を言われた。
私は、すぐに人を信じて騙されてしまうような人のよさがあった。
だけど同時にその頃の私は、天狗になって、今思えば本当に嫌な奴だった。
そしてある日、また事件が起きた。
池袋丸井の棚卸で数百万円分の商品がなくなっていることが発覚した。
店長として任せていた平野の仕業なのだが、商品を持ち出していたらしい。
当然ながら管理責任は社長である私の責任である。管理不行き届きということだ。
しかし、私は、その分負担すればいいのだろう。
まあ、なんとかなるさくらいに軽く受け止めていた。
同じ業界内で会社を複数に分けていたので、
「片方の会社はつぶしても、もうひとつは免れるだろう」と鷹をくくっていたのだ。
でも、実際にはそうならなかった。
結局、業界内で悪いうわさが広まって、すべてを畳むことになったのだ。
取引先や元の会社の上司も誰も私をかばってくれることなどなかった。
人生それほど甘くない。
当然ながら、一度信頼を失えば、すべてを失うのは世の常だ。
それまでの豪華な生活はこれで終焉を迎えることになった。
こういう時に一番辛いのは金がなくなることではない。
人の情の無さである。そして、自分の周りから人が去っていくことである。
外に囲っていた女は離れていくし、人間関係がリセットされるのだ。
それから、信頼していた部下が頭を下げていたのは、自分に対してではなく、
私の金に対してだったことを痛感させられる瞬間だ。
新しいビジネスに挑戦しようと言っても、彼らの頭の中は自分の生活への心配しかない。
だから、そのまま別の会社に移籍して、彼らにはそのままの生活を続けてもらうことになるわけだ。
「また別の会社を作って活躍できる場所を提供してください。待ってます。」
と言ってくれたスタッフもいたが、私がファッション業界で再起することは難しかった。
当時の私は37歳。今思えば、単に調子に乗っていただけのクソガキだ。
永遠に続くと思っていた華やかな生活は一瞬にして終わったのである。
そうして周りから人がいなくなった私は孤独の中で暗闇をさまよった。
海に行ってひとり呆然とし全てが嫌になって何度も死のうと考えた。
家にあった形見の空気銃を口にくわえて、
今にも引き金を引こうと震える瞬間を何度も経験した。
結局勇気が足りなくて死ぬこともできなかったわけだが、
今思えば死ななくて良かったと思う。
しかし、当時のカミさんは強かった。
あまりうまくいっていなかったはずだが、その時ばかりは私にやさしく接してくれた。
当時の私たちは、もうすっかり冷え切って男女の関係ではなくなっていた。
それでも、私をなだめてくれた。
「まあ、タイにでも行こうよ。しばらくゆっくりしたら?」
そんな言葉から、タイとの関係をより深めることになったのだ。
タイは、大学生時代に遊びに行った親近感のある国だった。
パタヤは私が卒業前に誕生日を迎えた場所であり、
その頃はまるで第二の庭のように思えるほどよく知っていた。
タイは社員旅行でスタッフを連れて何度も訪れていたので、
マッサージを受けていたし、タイ語もカタコトくらいは話せる状態だった。
知らない国ではなかったし、感覚的にも決して特別な国ではなかった。
ただ、私は、すっかりビジネスマンになっていたのだろうと思うが
ある日、ネットで調べたタイマッサージスクールに「おたくと取引したい」と電話をかけた。
「まあ、一度レッスンを受けてみてください」という話になり、いざタイへの渡航が決まった。
最初にDVDを見せられた。
一生懸命に覚えようとした。
でも、覚えきれなかった。描ききれなかった。
教室に移ると20人ほどの日本人の生徒がいた。
先生が一人にデモをする。
それでみんなやれと言われるので実践する。
さっき見たDVDとは内容が違っていたが、
まあ、いいや、仕方がないとあきらめた。
生徒の半分以上はマッサージの経験者たちだった。
だから、これでなんとかなったのだと思う。
未経験の私は押せと言われるまま押した。
押せと言うから、ただひたすらに押し込んだ。
すると、相手は「痛い!」と飛び上がった。
私には何が何だかわからなかった。
押せと言われたから押しただけだ。
何が何だかわからない。
マッサージはほとほと向いていないのだと思った。
だから、マッサージをビジネスにしようと考えた。
日本ではまだほとんど知られていないので、
協会を作ってスクールとサロンを作って・・・というビジョンが頭に浮かんだ。
死のうと思っていた後ろ向きな感覚は自分の中からすっかり消えていた。
遠くに小さく光が見えた瞬間だった。
昼休みに数名で近くの屋台に出かけた。
名前も忘れたが、私とカミさんを含めて4人だった。
そこで、みんなで協会を作ろう!と旗揚げした。
これがTTMAの始まりだ。
その後チェンマイに異動してママレックから直接習った。
どことなく能天気でつかみどころのないおばあさんだった。
マッサージの内容は数ページの写真があるだけでテキストと言えるようなものはなかった。
仕方がないから、絵を描いた。
絵は少し得意だったが、複雑な絡み方なので結構苦労した。
ホテルはカミさんと別の部屋をとった。
先に言った通り、実態はすでに夫婦ではなかったからだ。
私はマッサージには不向きだと感じたので、裏に徹することにした。
プロデューサーとしてカミさんをスターダムに押し上げようと考えた。
ホームページ制作に取り掛かった。
自力で独学で始めて作ってみた。
本心ではなんで俺がこんなことやらなきゃならないんだよと思っていた。
だけど、時代的にやるしかなかった。
金が底をついてきたので、渋谷区富ヶ谷の自社ビルは売りに出した。
売れればある程度まとまったお金は入ってくるだろう。
でも、その場所がなくなったら、新たにどこかでスペースを借りなければならない。
だから、ジレンマもあった。
だから、自分の中で運を天に任せようと思った。
ビジネスが軌道に乗るのが早いか、ビルが売れるのが早いか、
一世一代の勝負だ。
「人事を尽くして天命を待つ」という言葉が頭をよぎった。
不動産の問い合わせは好調だったらしく、少なからず内見は入った。
中には有名人もいた。テリーさんや長瀬君もきた。吉井さんも来た。
ある日、態度の悪い不動産屋が土足で上がり込んできた。
ふざけるな。失礼だろ!と怒ってとっさに「もう売るのをやめた」と口走っていた。
もうやるしかない!だから、毎晩よなよなHPの制作をした。
雨の日も風の日もチラシのポスティングをやった。
鎌倉の家は放置してココに泊まり込んだ。
24時間没頭した。
徐々にお客が来るようになった。
わざわざ遠くから受けに来る客もいた。
近所の堺さんも常連になった。
徐々に取材も入るようになった。
メディアに露出するようになっていった。
軌道に乗ってきた。
こうして私は再起した。
そのうち、カミさんは学びが足りないと言い始めた。
だから2か月に一度タイに学びに行かせるようになった。
ある日、友達が日本に来ているから一緒に食事しようと誘われた。
代官山のモンスーンカフェにカミさんが連れて来たのは
ハリ―だった。ギリシア人だった。
タイのスクールで知り合った友達だそうだ。
英語で会話していたが、ハリーは、「あのさー、お兄ちゃんさー!」
と私のことを呼んだ。
私は、自分は夫であって彼女の兄でないと説明した。・・・
そんな感じで、私は離婚を経験した。
元のカミさんが借りていた目黒警察裏のマンションには私が移って
ここで生活をすることになった。
自転車で風に吹かれながら会社に通う日々だった。
その頃、私は、縁あって表参道に2店舗目も構えていた。
スタッフが店回りに行った帰りに一匹の猫を抱えて帰ってきた。
なんだその子猫は?
いや、店の外に落ちてて泣いてたから連れてきちゃいました。
どうするんだ?飼うのか?
いいえ、私は無理です。飼えません。
結局、私が引き取ることになった。
猫の名前は、当時の店の名前をとってムウと名付けた。
ある日仕事から帰ると、子猫のムウがベランダに乗っていた。
目黒川沿いに立つマンションの6階だったと思う。
そこから落ちたら命はない。
だから、そっと抱きかかえて中に入れた。
今でも心臓がバクバクしたのを覚えている。
だから、翌日ここを出ることにした。
鎌倉の実家に戻れば何も問題がなかった。
ただ鎌倉に帰ると、その空き家のサッシが切り抜かれ
いろいろなものが消えていた。
テレビまで消えてなくなっていた。
そこから鎌倉でのひとりぐらし生活が始まった。
その頃の悩みはタイマッサージはやはりタイ人じゃなきゃダメか?ということだった。
多くの人がタイ人じゃなきゃ本物じゃないという認識を持っていた。
本物を追求してきたつもりだが、国籍で判断されるのは悔しかった。
タイマッサージと言う名前が良くないのかとも考えた。
それでも、タイ人セラピストやタイ人インストラクターに切り替えた。
ガイというインストラクターは、レッスンを担当していたが、
自分の休日には生徒を自宅に招いて無料で教えるかわりにやらせろと迫っていた
それが某サロンの指導を請け負っていたスタッフだったから大問題になった。
その店はヤクザもんの経営だった。めんどくさいので裏で一束包んで丸く納めた。
その後ガイはばっくれたので、大使館に連絡して国外追放にした。
サロンのマネージャーには古井を置いていた。
古井はワイガーデンを出店するための修行としてやっていた。
ある日、ノートPCの画面が開きっぱなしになっていたのをユウキが見つけた。
古井はムウの顧客名簿をワイガーデンの仲間にすべて渡していたことが発覚した。
古井は「これで立派な産業スパイだね」という返信を仲間からもらっていた。
古井には土下座をさせてクビにしたが、その後、2チャンネルに私の悪口を書き込んでいた。
それにしても、いろいろなことがあった。
スタッフも何人も入れ替わった。
自分でレッスンを担当するようになっていった。
エネルギーをマッサージに注いだ
クリエイティブな動きを作って披露するようになっていった
多くのテクニックを作ってきた。いや、自然にできた。勝手にできた。
テレビにも出演するようになった
テレビ番組にも協力するオファーが日々舞い込んだ
いいとも増刊号では40分でずっぱりでタイマッサージの素晴らしさを伝えた
タモリさんのサングラスの奥の目を斜め上から覗いた人は少ないはずだ。
激動の忙しさの中で、仕事の関係でやくざに追われたこともあった。
細かいことは忘れたが、ある人から内装ごと買い取った表参道の店に問題があった。
その売り主にはかなりの借金があって、それが担保になっていたようだ
そのせいで会社にヤクザが乗り込んでくる機会も増えた
私には関係ない話だったがそれでもなんだかんだいちゃもんをつけてくる
下っ端がすごんで見せるので、こっちもすごんでやったらケンカになった
後になってそいつは組を持つことになったから祝いの席に来てくれと言ってきたが
ヤクザとはかかわりたくないときっぱり断った。
それが原因で六本木のサウナに潜伏したこともあった。
そのころ、女関係でも別のヤクザもんとトラブルになったこともある。
その時は、六本木の交差点の真ん中で土下座をさせられた。
雨の中、走る車のすき間で5分以上も土下座を強いられた。
黒いスーツを着ていたので、車からは見えるはずもない
クラクションが鳴り響き、罵声を浴びせられ、通行人からは白い目で見られた。
それにしても車にひかれなくて本当に良かった。
ムウだけは当時のスタッフに預かってもらっていた。
さすがにいろいろありすぎて疲れ切っていた。
なんとなく感覚が変わったのはこの頃である。
ビジネスというものにも少し飽きてきた。
頑張ればのし上がれるとも思ったが、思ったよりも大変だ。
金儲けは人間関係を歪めるし、余計な問題を引き起こす。
うず撒く人の感情に翻弄され振り回されるし、
自分が思ったようにはなかなか前に進めない。
そもそも人は仕事をするために生まれてきたわけじゃないはず。
確かにエネルギーを仕事に費やしてきたが、
自分の人生がこのままだったら、
大切な何かに気付くことなく終わってしまうのか?
という不安に苛まれるようになった。
その大切なものがいったい何なのか私にはわからなかった。
自分はどこに向かっているのかまったくわからなかった。
それまでより伝統医学に興味をもつようになった
自然にも興味をもった
それらが仕事に関係するのかしないのか、わからなかった。
大切な何かがその中にあるかどうかさえわからなかった。
ただ、興味を持ったものを追いかけて流されてみてもいいかという気になった
何を模索してるのかわからない。
だけど、それが何なのかを模索しながら
答えのない日々を生きるのも悪くないとも思った。
今考えれば、少し鬱っぽかったのかもしれない。
その頃、自分が子供だった頃の安定した生活が懐かしく感じられた。
きっと激動過ぎる日々に疲れ果てていたのだろう
昔を振り返った時、家族がみな元気で、笑顔があふれていたのは沖縄で過ごした数年間だった
だから沖縄を懐かしむことが多くなった。
沖縄を思うことは幸せな家族との思い出の中に身を置くことだった。
それで、沖縄に行ってみた。
だけど、すでにそこには私が小学校時代に見た懐かしい景色はなかった。
浦添の中西小学校は立て替えられ、
丘の中腹に銀色に光りたたずむ巨大なタンクも消えていた
巨大なタンクは、沖縄の戦後復興期から高度経済成長期にかけての知る人ぞ知る風景の中に合った
時の移ろいは自分が思うよりも早い
景色は変わり、着ている服装も変わる。
雑踏の音も変わり、街の空気は変わるのだ。
だから、一瞬一瞬を瞼に焼き付けておくしかない
後になって写真を見ても、それは遠い世界を傍から眺めるだけのことだ
東日本大震災が起こった
ボランティアに行った
自分のことしか考えられないようなつまらない大人でいるのが嫌だった
富ヶ谷のビルに亀裂が走った。
あちらこちらが壊れた
修繕費には家が買えるほどの金がかかった
金はあってもすぐになくなるものだ
富ヶ谷を売却することにした
鎌倉に戻って猫と生活することにした。
ムウは雌だったから子供を産んだ
相手はよく来ていた野良のちゃーちゃんだと思う
ムウが産んだのは
雄一匹、雌二匹。
長男チャボ。メオ。ヌイ。
しばらく穏やかな日々が続いた。
猫はまた増えた。
チャボとメオの間に数匹。
チャボとヌイの間に数匹産まれた。
それぞれ一匹ずつ残して他は里子に出した。
だから残ったのは、ニンニンとミケだ。
その後も、チャボはこのあたりでボスとなり、
メオはすぐに消えていなくなった。
ヌイはその後も子供を産み続けたが、ある日子供を連れて近寄らなくなった。
こうして、猫屋敷に変貌していく。
みんなかわいかった。
でも中には車にひかれてしまう子たちがいた
多い時には40匹に膨れ上がった。
毎月数十万円がエサ代に消えた。
でも、そんなことはどうでもよかった。
命がある時突然に奪われることに耐えられなかった。
近所では猫屋敷の主として後ろ指さされる存在になった。
どんどん人間が嫌いになった。
自分都合で走り抜ける車の運転手に腹が立った。
大切な家族を奪う独りよがりの行動が許せなくなった。
言葉でしか相手を理解しようとしない
人間の振る舞いが無性に腹立たしかった。
せめて、自分は表面的な言葉ではなく
言葉にならない気持ちを理解することに努めようと思った
ある日、何気なくネットの不動産情報を見ていた。
気になる物件があった。家の近くの物件だった。
敷地は広く山まるごとだからバカでかい。
ここに移れば、人間のエゴで猫を死なせることもなくなると思った。
それですぐに見に行った。
草がボーボーで中はほとんど見えなかった。
駐車場はなかった。
広いだけで、奥まっているのでアクセスは不便だった。
だけど、その方が車にひかれる心配がない。
どうかなあ?と心の中でつぶやく自分がいた。
帰りに回り道をしてみた。
違う角度から眺めたら
昔、おふくろと散歩した裏道から見えたあの建物だった
「あんな山の上で暮らせたらいいね」と話した建物だ。
運命的なモノを感じ購入することにした。
最初は家にするつもりだった。
そうすれば、猫を幸せにできると思った。
悩んだ。だけど、結局猫はそのままの場所で生活してもらうことにした。
もうビジネスに偏りすぎた暮らしは嫌だった。
ここで、本当にやりたいことをやってみることにした。
困ってる人を助けたいと思った。誰かの役に立ちたいと思った。
自分のエゴを優先にする人間として烙印を押されたくなかった。
だから、自分の人生をうまくやろうという思いを敢えて削ってみることにした。
現代社会では自分のために生きろと言われる
だから自分のために生きてみた。
いくらかの資産は手に入れた。
だけど、空虚だった。
自分のために生きることをやめてみようと思った。
母親が亡くなる前、看病しながら
自分の時間をこの人に捧げてみようと考えた時期はあった。
だけど、母の死をもってそれが終わり、
その中で特に学んだことはなかったからだ。
だから、改めてボランティアを始めた。
無償で自分の知識を与えようとした。
そうすれば、誰かを救えると思った。
そうすれば自分も救われると思った。
だけど、結局最後はすべてを持ち逃げされた。
だから、バランスをとって、ビジネス半分、ボランティア半分くらいにした。
何が何だかわからないまま、気持ちの整理もつかないまま、
ただ、気持ちの赴くままに何でもやってみた。
全部感覚だけで突っ走った。
グランピングを始めた。
もっと本格的なマッサージスクールをはじめた。
レベルの高い施術法をどんどん考案した。
これは没頭できた。クリエイティブな部分が性に合っていた。
何も考えずひたすら集中するといろんな技が勝手にできてしまう
それは決して努力ではなかった
マッサージをしてると勝手に身体が動いてしまう
寝る前のぼーっとした瞬間にも頭の中に勝手に浮かんでくるのだ
俺は天才か?と思う瞬間さえあった。これがダブルヨガである。
私が編み出した多くのストレッチテクニックは
動画でも一般公開したから、その多くは模倣された
まあ、表面的な形だけは似ているといった感じだが・・・
それらはコンテストや何かで披露されている
多くの人はそれがタイマッサージだと思ってやっているだけだろう
本当は私が始めたものだ
まあ、勝手に下りてきたものだから別にかまわない
だから、決してその連中を責めたことは一度もない
だけど見ればわかる。
ちょっと違うんだよなってわかってしまう
本物は違う
比較すればわかるはずだ
私の先輩にも達人たちははいた
しかしダブルヨガのそれはどれとも違う
チョンコルとも違うパラウェドとも違う
ただ、ちょっとだけオリジナルを体感してほしいとも思う
この時期は今考えればいろいろやった。
他にもいろいろ手当たり次第にやってみた。
思ったことをすべて形にしようと思ったからだ。
サロンも作った。
キャンプ場も作った。
自然農のレンタルファームも始めた。
そのうちジャップカサイがブレイクを始めた。
不動産事業も始めた。
どれもこれもそこそこうまくいった。
生徒の一人だった真名と縁があって結婚した。
かわいいと思ったからだ。
彼女は何でも肯定してくれた。
否定することなくなんでも同意してくれる
はいはいとうなづいてくれる人だったからだ。
しかし、結婚して1週間後には180度違う人格に変貌した。
夫婦は対等だから言うことを聞くつもりはないとはっきり言われた。
頭を思い切り叩かれるほどの衝撃に感じた。
だから離婚しようと言った。
即座に「それはない」と言い切られる。
何度互いのためにならないと細かく説明しても答えはNOだった
そこから、地獄の日々へと突入する。
その後すぐにサトルが入社した。
言っていることとやっていることが全く違う根っからの詐欺師だ
平気で何百回も嘘をつく
こいつはぺらぺらして口八丁に何でもごまかしてうまくやろうとする
悪気はないのかもしれないが、他人を慮る情や深さがない。
やることなすことが私にマイナスに作用する連中だ。
こいつらが嫌で多くは会社を去った。
日々接する中に信用できる人はいなくなった
級友に相談するのも親戚に相談するのもみっともないと感じ連絡は避けた
自分の周りはわかってくれない敵ばかりと感じた。
真名が嫌がるので、ジャップカサイはサトルに託した。
真名とは相変わらずケンカが絶えなかった。
だけど、自分の周りに頼れる人はもう誰もいなかった。
地獄の日々が続いた。
金庫からは金が消えている
金目のものはいつの間にか消失している
とにかくこんな生活終わりにしたかった。
ボランティアどころじゃなくなった。
話はかみ合わない。
言葉は通じない。
顔を合わせればぶつかる以外ない。
子供が生まれた。
それでも冷戦は続いていく。
ある日私は警察に訴えられた
悪人に仕立てられてそのまま逮捕されてしまう
留置場で20日間過ごす羽目になった
サトルが時々面会に来た
支払いがある。猫の面倒がある
だから、家の金庫や暗証番号すべてをオープンにした
出所後、あちこちの弁護士にも相談した。
仕事も絡んでいるので複雑すぎて断られてしまう。
夫婦喧嘩は続いた
警察もしょっちゅう来るようになった
毎日気が変になりそうな自分をひたすらに抑えた
神仏にすがるしかなかった。
時々、仏壇の前で一人涙を流した。
だんだん生と死の境界がないと感じるようになっていった。
状況を変えようとトライしたが、どうにもならなっかった。
ある日、また事件が起きた。
殴られたから殴り返したらまた警察に逮捕された
すでにDV夫のレッテルが貼られた
一度そうなるともう話はまともに聞いてもらえなくなる
また事件が起こった。
トマツサトルの横領事件である
生徒に訴えられた
生きてるだけで災難は降りかかるものだ。
自分ではどうにもならない抗えない運命はあるのかもしれない
次第に運命を受け入れるしかないと考えるようになった。
自分の人生を捨ててしまおう。
それは、自分の命を絶つことでなく、
渡邊のバトンを繋ぐ役割に徹しようと考えた。
自分は死んだと思って気持ちと感情を抜き去ろうとした。
これらが消えても最後に魂は残るからだ。
自分の気持ちや心を徹底的に抑える訓練をすると
不思議と死ぬことに対する恐怖は薄らいでいくものだ
人生山あり谷ありだ。
山があっても谷もある。
おしなべて見ればきっとみんなフラットだろうと思う。
死んだ後のことを考えるようになった。
日々たくさんの人が死んでいく
今もこの瞬間も亡くなっている人はいるのだろう
この頃世間では海洋散骨というサービスが登場していた
へえ、墓の文化も変わるのか・・
なんでも変わるんだな・・
そんな風に思った
この時、すでに私は60を超えていた
そろそろもっと先のことも考えるのに早すぎることはない
でも、自分なら海より山の方がいいと感じた
山への散骨はあるのか?
調べてみたらあまりないこともわかった。
だから山林散骨をやってみようと思った
全く知らない業界だし、山林散骨業者はなかったから
正直どこから手を付けようかわからなかったが
とりあえずHPをネット上にアップした
最初は全く手ごたえがなかった
問い合わせも全くなかった
だからブログ形式のポータルサイトを作った
英語版も作った
アクセスがとれるようになったら
少しずつ問い合わせが増えてきた
つい先日62歳の誕生日を迎えたので
改めて自分が何をやりたいのかを自問自答した
でもわからない。わからなくていいのだ。
すでに自分の頭で考えることはやめている
流されればいいとしか思っていない
それが自分の人生を受け入れるということだ
自分の頭で考えることはしない
もっと大きな力が働いていることを信じられるようになっている
神や仏にも尋ねるようにしている
何かをしてくれるわけではないが、
夢の中で毎日何かを教えてくれる
メッセージをくれたり気づかせてくれたりする
その通り動くだけで案外うまくいくのだ
だから感謝をしている
見えない力にも神や仏に対して
そういう意識でいると
真名との関係も少しづつ自然と改善された
なかなかいいやつだと思う瞬間も増えてきた
まあ、これでよかったのかもなと思う瞬間も増えてきた
視点を変えてみれば感謝できることもたくさんある
この春プラナが小学校に入学する
何もしてあげてないのが心苦しいけど
まあ、仲良くやっている
だから、あがくことなく日々を送ればいい
自分の人生をある程度俯瞰して放置するくらいの方が
苦労が少ないのかもしれない
ちょっとした幸せや安定した精神状態を保てるのだと思う
理由はわからないし、説明することもできない
だけどその方がいいと確信をもって言える
ただ、わかるのは、
自分自身を見えない力に委ねることで
スムーズに日々が進むものである
そして見えない力に背中を押されるままに
ダブルヨガ道場を作ろうとしている
ダブルヨガはこうした感覚を動的瞑想として体系づけたものだ
自分と他人との境界をなくしてしまうほうがいい
ありのままをを受け入れて
抗わず流れに身を任せてしまうのだ
計算などしない自分の頭では何も考えない
ただ流れに身を任せる
まるでドラマでの主人公を見ているかのように
どこか冷めた目で他人事のように自分を俯瞰して観るのだ
そうすることで、到達して初めて見える景色がある
私には霊感などなにもない
死者との会話なんてできるわけがない
何かが見えたり聞こえたりすることもない
そもそも、自分と別の何かに分離していないわけだから
自分の意識で動いているのか動かされているのか区別がつかない
だから、この感覚を他の誰かにも伝えようと思う
そして今日は何故か自分の自伝をまとめている
何かに突き動かされるように自分が見えない力で動かされているかのように
自伝なんか書こうと思ったことはない。
朝目が覚めたらなんとなくそんな思いになっていた
だからタバコも吸わずコーヒーも飲まず
PCに向かってわき目もふらず
ただ頭の中に浮かぶ言葉を記しているだけ
回顧録だが、一日で自分の人生を走馬灯のように振り返ってみた
こんな経験は生まれて初めてのことだ
2026.04.03
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