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—渡邊ソウイチロウとは何者か—
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私は、2000年から25年間に渡ってTTMA(特定非営利活動法人日本トラディショナルタイマッサージ協会)という組織を牽引してきました。株式会社エイチ・ティー・ディーは、1991年から代表取締役として数々のビジネスプロジェクトを立ち上げ運営してまいりました。ファッションビジネスの世界ではおよそ20店舗を切り盛りし、空間デザインや紙面のデザインも手がけてきました。それと同時に、マッサージサロンやマッサージスクールを運営し、スクールでは講師として直接現場にかかわってきました。それ以外にも自然への回帰をテーマにしたキャンプ・ブッシュクラフトを展開し、アウトドアイベントの企画運営を手掛けてきました。2024年には社会的なニーズを踏まえて、終活や散骨事業をスタートさせました。一部では、私のことを「金儲け主義」と非難する声があったことも知っています。
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| ■ 思いはひとつ |
「マッサージ」「キャンプ・ブッシュクラフト」「散骨」は一見するとバラバラに見えます。ですが、私の中ではこれらは全て「命の循環(タオ)」という一本の糸で繋がっていると認識しています。私の人生はライフデザインそのものであり、簡単にまとめるなら、ざっと以下のようなものです。ダブルヨガを通じて、自らの「エゴ」に向き合い、ブッシュクラフトでは、自然の一部としての本来の人間としてのあり方を再認識し、散骨では 「死」に向き合うことで「生」とは何かを自らに問い、最後に土へ還るという循環を目の当たりにすることで、自らを客観的に問うというプロセスです。これらは、自らを見つめなおすプログラムに過ぎず、客観的に俯瞰して観ることで初めて自分自身の人生をデザインすることができると考えてきたからです。私自身は、「マッサージ屋」ではなく、「生まれてから死ぬまでの、人間としての尊厳ある在り方」を自らデザインして実践する先駆者でありたいと思い、それらをひとつひとつ形にしてきました。
私は、決して「タイマッサージを教えたい」のではありません。ダブルヨガを通して、自分自身を俯瞰して客観的に見つめなおし、自分らしい人生をデザインしてほしいと思っています。自然と調和し、他者と調和するダブルヨガというプロセスを通じて、現代人が忘れかけている「人間らしさ」を取り戻し、自分自身が心から納得できるような人生を送ってほしいのです。自分自身の「内なる声」を聞いて自分の信じる『道(タオ)』を妥協することなく表現してほしいのです。ダブルヨガ瞬間芸術であるように、宇宙的規模から見れば、私たち一人一人の人生なんて一瞬の出来事に過ぎません。正しさとは何ですか?間違いとは何ですか?正しいも間違いもありません。周りからどう思われたってどうってことありません。あなたは「あなた自身の人生」を取り戻し、最後の時には「素晴らしい人生だった」と心から喜べる人生にしてほしいのです。「人生に躓いたとき、己の火を取り戻しに来る聖地」として役に立てれば幸いです。 |
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| ■ 「成功」よりも「本質」の探究へ |
客観的に見れば、少しは成功した内に入るのかも知れません。ビジネス的な成功は、「自分の思想を具現化するための、自由な戦場(プラットフォーム)を手に入れるためのプロセスだったに過ぎません。「稼ぐためにやってきた」のではなく、「自分の信じる『道(タオ)』を妥協なく表現するために、行動に移してきただけのことです。稼いだ富は「自由を買い、思想を貫くためのガソリン」です。富を否定するつもりもありませんが、富を蓄えることが最終的な目標なのではなく、自分の思想をカタチにするためのガソリンであったに過ぎません。私は
「現代社会が最も失ってしまった大切なもの」を憂いてきました。「現代社会は、形ばかりを整え、肝心の「心」を置き去りにしている。」ように私の目には映っています。多数派の正解に身を任せて安心している多くの人たち。人生に正しいも間違いもないはずなのに、社会の平均値に身を置くことで安心し、自分自身の人生をデザインすることを諦めてしまった人たち。そのまま一生を終えてしまって最後に後悔は残らないのだろうか。一生はそんなに長くはないと思います。もっと自由に思ったように生きればいいのに・・・そんな風に私には映ってしまっています。「自分らしく生きたい」と願う若者やプロフェッショナルにとって、私の人生そのものが「群れに流されず、自分の信じる道を走り抜くための経済的自立」を体現しているロールモデルになれれば嬉しい限りです。同調圧力に屈し、自分を殺して流される現代人への「警鐘」。般若の面のように自分を一度「空」にして俯瞰することで、初めて手に入る「真の自由」。人から認められたいという思いで「成功」を追いかけることよりも「本質」を探求すること。それは道(タオ)に違いありません。 |
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| ■ 21世紀の修行僧としての宿命 |
世間一般ではきっと私は「変人」というカテゴリに分類されるのだと思います。それを決して卑下することもありませんし、逆にその響きを私は勲章のような意味合いとして前向きに理解しています。昭和39年3月19日、午前3時33分。私がこの世に生を受けたその瞬間です。カバラ数秘術において、私に刻印された数字は「33」。それは、個の利益を超え、無償の愛と調和を世界に注ぐという「マスターヒーラー」の宿命です。3時33分という誕生の時刻は、その設計図が天の意図によるものであることを、私に静かに告げ続けてきました。東洋の智恵である九星気学では、情熱と先見の明を司る「九紫火星」。西洋の星読みでは、万物を溶かし一つへと還す慈愛の「うお座」。火の浄化と水の包容力。この相反する二つのエネルギーが、般若の面の下で一つに溶け合う場所――それが、私の歩む「道(タオ)」の原点です。かつて私は、実業の世界で社会の形を整えることに心血を注ぎました。しかし人生の終盤を迎え、私はそのすべてを脱ぎ捨て、一人の「修行僧」へと還ることを選びました。形ばかりを重んじ、心が置き去りにされた現代社会。同調の波に呑まれ、自らの人生をデザインすることを忘れた人々。私はWYOGAという身体技法を通じて、あるいは山での火熾し(ブッシュクラフト)や、母なる大地への回帰(散骨)を通じて、失われた「野性」と「自律」を呼び覚まします。「恐れるな、自らの人生を走れ。」私が提供するのは、完成された商品ではありません。私自身もまた、完成することのない「現在進行形」の修行者です。自分を俯瞰し、エゴを溶かし、宇宙の調和(タオ)と一体となるプロセス。この道場は、誰かの正解をなぞる場所ではなく、あなたが、あなた自身の人生のデザイナーとして目覚めるための聖域です。3:33の静寂から始まった私の旅は、今、あなたとの出逢いへと繋がります。 |
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| ■ 奪う愛、与える覚悟、向き合い方 |
かつて、私はすべてを無償で与えることで人を救おうとしました。以前、私はあるボランティア企画を立ち上げました。身を寄せ合う場所、日々の糧、そして私が心血を注いできたWYOGAの技。そのすべてを無償で弟子に与えました。「誰かの役に立ちたい」という純粋な願いからです。しかし、その結末は、恩を仇で返されるような「裏切り」でした。私は深く考え込みました。私の何が間違っていたのか。神仏に問い、自らの丹(はら)を見つめ直したとき、一つの残酷な真理に辿り着きました。それは「対価なき救済は、相手の『自立する力』を奪う。」ということです。覚悟のない者にすべてを無償で与えることは、慈愛ではなく、結果として相手を「依存という沼」に沈める行為でした。汗をかかず、痛みを伴わずに手に入れた知恵や技術は、血肉にはなりません。それどころか、人は「もっともらえるはずだ」という際限のないエゴを肥大化させ、最後にはその手を差し伸べた飼い主を噛むようになります。
この苦い経験を経て、私は「無料で与えること」を止めました。本当の救済とは、自らの足で歩かせる厳しさの中にあるからです。今の道場が、決して安くない対価を求め、厳しい入塾の問いを課すのは、私がお金に固執しているからではありません。門を叩くあなたに、「自分の人生を、自分の責任で買い取る」という覚悟を持ってほしいからです。その痛みを伴う決意があって初めて、私の言葉はあなたの骨に染み込み、WYOGAはあなたの魂を震わせる「生きた知恵」に変わります。私はもう、あなたを甘やかすことはしません。あなたが自らの力で「野生」を取り戻し、凛として歩き出すための、世界で最も厳しい「伴走者」でありたいと考えています。 |
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| ■ 私がWYOGAや山林散骨を手掛ける理由 |
私が山林散骨を広めているのは、単なる供養の形を提案しているからではありません。それは、私がWYOGAを通じて伝えてきた「自己を放つ」という生き方の、最終的な到達点だからです。私は長年、実業の世界で結果を出すことに邁進してきました。タイマッサージの伝統を広めるTTMAを主宰し、グランピングやキャンプなど、自然回帰の想いを形にしてきました。直近では、山林散骨事業において、たった一年で業界の中心的企業へと登りつめました。しかし、私が伝えたいのは、事業の規模や成功の数字などではありません。ひとりのアーティストとして「自分の思いを人生かけて表現すること」に他なりません。そばにいる人は知っていますが、私は決して経営者的なカラーではなく、どこまで行ってもひとりのアーティストでしかありません。
ただ、思いを形にするために、複数の事業を起こましたが、それは私にとっての自己実現の方法であったに過ぎず、周りからは「金に対して無頓着すぎる」と散々笑われてきたのが実態です。そして、思いを形にすることを経験してきたからこそ、その先にある「無為自然」の尊さに辿り着いたのだと自分では理解しています。
私にとっては、ダブルヨガで「自分を放つ」ことと、山に「骨を撒く」ことは、実は同じひとつの行為です。WYOGA(ダブルヨガ)は、生きながらにして「個」を溶かす稽古です。キャンプは「個」を自然の中に置いて心を澄まして俯瞰するための訓練であり、山林散骨は、死をもって自然へと還る最終形態です。山に骨を撒き、土に溶け、樹木の栄養となるのは、自分という境界線を完全に消し去り、宇宙の循環(タオ)へと自分を「全開放」する最高にクリエイティブな解放ではないでしょうか。 |
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| ■ 家紋は、DNAを再起動させるためのパスワード |
私の家には家紋があります。玄関にも仏間にも飾っています。PC画面にも家紋があります。車にも乗せていますし、墓石にも備わっています。日常の至るところに家紋があります。私の家紋は「丸の渡辺星(三つ星)」です。私は、「渡邊の綱」から続く武人の家に生まれたせいか、個よりも家を守ることを重んじる傾向があります。しかし、どこの家にも家紋があるはずです。家紋を見つめること。それは、単なる懐古趣味ではなく、あなたの細胞内に蓄積された「千年の生存戦略」を呼び覚ます、極めて理知的な儀式なのかもしれません。
言葉による思考(理性)を超え、図形という象徴(シンボル)を通して脳の深層にアクセスする。そのとき、あなたの身体には、あなた一人の経験を超えた「野生の智慧」が宿ります。家紋という錨(アンカー)を下ろすことで、情報の濁流に流されない「不動の自分」を確立することができているように思います。心理学者ユングは、個人の経験を超えた「人類共通のイメージ」が精神の深層にあると説きました。家紋は、一族が数百年かけて「誇り・団結・生存」という強い感情を注ぎ込み続けてきた「共同のシンボル」です。家紋を凝視することは、個人の浅い意識を通り越し、一族の共有サーバー(集合無意識)にアクセスする「認証キー」として機能するはずです。脳には、特定のシンボルを見ると、それに関連する記憶や行動が自動的に引き出される「プライミング効果」があります。かつて「DNAは一生変わらない設計図」とされてきましたが、現在は違います。先祖が経験した飢餓、戦争、あるいは深い瞑想による平穏といった体験は、DNAの塩基配列は変えずに、その「スイッチ(メチル化)」として記録されることがわかっています。「家紋を見る」という視覚刺激は、特定の神経回路を起動させ、数世代にわたって刻印された「生存に有利な遺伝子(サバイバル・プロトコル)」の発現を促すスイッチとなります。先祖たちが代々、同じ家紋を仰ぎ、祈り、戦ってきた「思いのエネルギー」は、消えてなくなることはありません。
なぜ、成功した実業家や武将たちは、これほどまでに家紋(ルーツ)を重んじたのか。現代科学の視点に立てば、家紋は単なる意匠ではなく、「血脈のデータベース」にアクセスするためのインターフェースです。私たちが受け継ぐDNAには、先祖が極限状態で磨き上げた「直感の種」がエピジェネティックな記憶として保存されています。家紋という抽象図形による視覚刺激は、脳の深層にダイレクトに働きかけ、現代のストレスで「オフ」になっていた本来の生存能力を再起動させます。あなたにはあなたの家紋があるはずです。家紋を仰ぎ、意識を集中させてみてはいかがでしょうか?それは、数千人の先祖が積み上げてきた「成功と生存の記録」をダウンロードし、自分の脳と身体に同期させる行為です。 |
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| ■「みんなみんな、幸せでありますように。」 |
私は日々、神棚と仏壇に向き合い、神仏に挨拶をしてをいます。特定の作法もなく、お経をあげるわけでもありません。ただ、そこに生きた人がいるのと同じように、「おはようございます。朝元気に起きられました。いつもありがとうございます。今日もよろしくお願いします。」そんな言葉を心の中でつぶやいています。それは瞑想なのか、祈りなのか、自分でもわかりません。当たり前のこととして日々やっているだけのことです。ただ、心の底から湧き上がるのは、あまりにもシンプルな願いです。「幸せでありますように」私自身が。私の愛するあの人が。傍らで眠る猫も、空をゆく鳥も。そして、私とすれ違ったあの人も。かつて私に悪口を言い傷つけたあの人も。金庫から数千万円盗み取ったあの泥棒さえも。みんな、みんな、幸せであってほしい。誰かを憎み、誰かを責めているとき、私たちの心は硬い殻(エゴ)に閉じ込められ、呼吸は浅くなり、生命の循環は止まってしまいます。しかし、自分を放ち、敵も味方も区別なく「幸せ」を祈ることができたとき、その硬い殻は一瞬で溶け去ります。祈りは、自分を救うための「最大の自愛」です。一期一会のセッションで私があなたに触れるとき、私の手からは、この「みんなみんな」への祈りが流れています。相手の幸せを願うことで、自分もまた、大きな愛の循環の中に還っていく。この「自利利他」のエネルギーこそが、激動の時代を軽やかに生き抜くための、たった一つの羅針盤だと考えています。 |
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| ■「私のハッピーは、誰かのハッピー。」 |
| 理屈で考えれば、私とあなたは別の人間です。でも、自分という固い殻(エゴ)を少しだけゆるめて、深呼吸してみてください。あなたの吸った息は、かつて誰かが吐いた息。あなたの流した涙は、いつか海へ還り、また誰かを潤す雫になる。私たちは、目に見えない大きな「いのちの網」でつながっています。私が笑えば、その振動は波紋となって世界に広がり、回り回ってあなたの元へ届く。あなたが幸せを感じれば、その輝きは私を照らす光になる。猫も、鳥も、草木も、そして今はまだ分かり合えないあの人でさえも。「みんな、つながっている。みんな、ひとつ。」難しい顔をして修行するのもいいけれど、たまには肩の力を抜いて、この「ワンネス」の心地よさに身を任せてみるのもいいと思います。「自分のハッピー」を、世界中の「みんなのハッピー」に投げ込んでみる。自分を放ち、世界と溶け合う。その軽やかなステップこそが、WYOGA(ダブルヨガ)が導く、自由な人生のダンスです。 |
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| ■ 政治にも宗教にも興味がない理由 |
私は右翼でも左翼でもありませんし、特定の宗教に染まるつもりもありません。自分では文化を大切にするアナーキズムだと思っています。絶対権力が基準を作って縛ることに不満を感じることさえあります。権威や伝統を疑う目を持っており、自分の頭で考え、納得したことだけを信じます。「国家や政府(権力)が上から決めたルール」には従いたくないけれど、「先人たちが積み上げてきた知恵や美意識や文化」は自分の意志で継承したいと考えています。「組織のコマ」になるのはまっぴらごめんで、馴れ合いの集団よりも、個の尊厳を大事にします。変化を恐れることなく、個人の多様性を認めたいと思っています。みんなバラバラでいいと感じています。そもそも、国家に所属するものではないし、自然発生的なものだからです。そこに国境は不要です。右翼左翼に区分する姿勢にも疑問があります。二項対立(右・左)という枠組み自体が無意味だと感じます。これらは「集団」を管理しやすくするための古いタグに過ぎません。政治の本質は、バラバラな人々を一つの「方針」や「イデオロギー」という枠に当てはめ、管理・統制することにあります。私は昔から政治に興味がありません。そもそもひとつの考えや方針にまとめようとする姿勢が嫌いだからです。それは「個々の尊重」という美学と根本的に衝突するからです。みんな突き詰めていけばもっとバラバラなはずです。上手くやるには、それぞれを認め合って合意点を見出すだけのことです。権力がルールを「与える」のではなく、異なる個々人が対等な立場で「調整」し合う。これこそが、本来の民主主義やアナーキズムが理想とした「対話による共生」です。政治(法や強制)に頼らなくても、文化や道徳という「長い時間をかけて育まれた知恵」があれば、人は自律して調和できるはず。個人が文化(美や知恵)を愛でる心は持ちつつも、自分自身が政治的なコマに成り下がる必要はありません。国境という「線」ではなく、個人の「点」が緩やかにつながり、その都度必要な合意を作っていけばいいだけです。東洋思想の「和して同ぜず(人と仲良くはするが、安易に同調はしない)」という自律の精神があったはずです。既存の常識に自分を当てはめていないことです。常に自分の考えで行動することです。「右翼・左翼」や「資本主義・共産主義」といった二次元の物差しで測ろうとすること自体がナンセンスです。そして、私はどの宗教も否定しません。道徳と考えればそれらはすべて納得できる考え方です。すべてに一理あります。個々を認めるように、宗教も認めています。常識を疑い、自分の足で立ちながら、他者の信じるもの(宗教や価値観)にも敬意を払う。「孤独な自律」と「他者への寛容」の両立こそが、私が体現している「調和」の正体です。これは、特定の教祖も経典も持たない「個の哲学」です。新興宗教の多くは、共通のルールやシンボルで人々を一つにまとめようとしますが、私は「みんなバラバラであること」を前提としています。誰かに従うのではなく、「常に自分の考えで行動する」という姿勢は、宗教という枠組みを超えた、現代的なスタンスです。ありのままを受け入れて、どう波に乗るかが問われているだけだと思います。国家や組織という「大きな物語」が力を失いつつある現代において、既存の常識に縛られず、自分の頭で考え、かつ他者と調和しようとする姿勢こそ、これからの時代に必要とされる考え方ではないでしょうか? |
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| ■ほとほと経営者が向いていないと感じる理由 |
私は、30年以上に渡って経営者という役割を生きながら、その中心にある「管理」という営みに、常に言いようのない違和感を抱き続けてきました。世間で言われる経営の本質とは、組織を一つの色に染め、数字という枠に当てはめ、未来を計画通りにコントロールすることにあります。しかし、私の本質はその真逆にあるように感じます。私は、人を「長所・短所」という記号で切り分け、組織の駒として、あるいは奴隷のように扱う傲慢さをどうしても受け入れることができなかったのです。私がそうされるのも嫌ですし、同時にそうすることにも抵抗があるからです。だから組織を作ることが苦手だったのです。人は神ではない。誰かが一方的に見た視点で他者の全人格を定義し、利用価値を決めてしまう権利など、誰にもないはず。今、改めて考えてみれば、「組織をうまく作れなかった」という自覚は、私にとって、人を道具として扱えなかったという人間としての誇りの裏返しでもあります。私にとって、人生のすべてはアートです。瞬間瞬間に注ぎ込まれる全身全霊の表現こそが真実のアートなのです。理由はわかりませんが、生まれてから死ぬまでの人生そのものが芸術作品でなければならないと感じてしまいます。それは「ダブルヨガ」も同じこと。あの瞬間瞬間に生まれる心身の対話もまた、二度とは繰り返せない瞬間芸術です。この世のあらゆる営みは、統治されるべき対象ではなく、表現されるべき美なのだと思います。経営という場さえも、私にとっては自分という個を世界と調和させるための、壮大な実験場であり、キャンバスでした。もし経営者が「正解を一つにまとめ、秩序を守る番人」を指すのなら、私は確かに、ほとほと経営者には向いていない。ただ、世の中の人が求めることをカタチにするためには、もっと素晴らしい世の中にするためには、新しいことを始めるしかなかったのです。ですから、自分で事業を始めるしかほかに道がなかったのです。私がやってきたのは、ただ目の前の波を「ありのままに受け入れ、どう乗るか」という即興の対話を繰り返してきただけのことです。それは戦略的な「統治」ではなく、瞬間瞬間の「表現」だったのです。だから、私はどこまで行っても表現者でしかないのです。だから、もう誰も雇用することはありません。管理という鎖を解き放ち、ありのままの波に乗りながら、この世界のすべてを私自身のアートとして描き切っていきたいのです。それが私なのだと思います。 |
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