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| ■仮面に何を見るか。それは、あなた自身の心を映す鏡かもしれない。 |
般若の面を前にしたとき、あなたは何を感じますか?表面的な恐ろしさでしょうか。避けたい衝動や、目を背けたくなるような激しい感情でしょうか。もし、そこに「負」のものだけを見るのなら、それはあなた自身が、無意識に「色眼鏡」を通して世界を見ている証かもしれません。人は、自分が金銭に執着していれば、他者をうがった視点で捉え「金儲け主義だ」と批判します。自分の中にある影を、他者や仮面に投影しているに過ぎないのです。
あなたは「激しさの裏側に、守りたかった純粋な愛があったこと」が感じ取れるでしょうか?その面の奥底をじっと見つめてみてください。そこには、必死に生きてきた尊い物語が隠されています。守りたかった愛、癒えぬ悲しみ、そして懸命な生命の輝き。
表面的な「怒り」や「恐れ」を裁くのではなく、その裏側にある背景を察し、丸ごと受け入れ、まとめ上げること。それこそが「慮る(おもんぱかる)」ということであり、人間としての真の奥深さがあります。そしてそれは「ダブルヨガ」が目指す調和の姿です。思い込みの眼鏡を外し、魂の物語に触れるとき、あなたとパートナーの間には、かつてないほど純粋な響き合いが生まれるはずです。
※能における「般若」は、単なる怪物ではなく、「強すぎる想いゆえに、鬼にならざるを得なかった女性」の悲しい姿を象徴しています。般若の正体は、もともとは普通の人間(女性)です。愛する人に裏切られ、届かぬ想いに悶えたりする中で、激しい「嫉妬」や「執念」が抑えきれなくなって、その情念が鬼へと変貌した姿です。その後、鬼は祈りによって調和を取り戻し、結末では静かに去っていく物語です。 |
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| ■苦難を慈しみに変える方法 |
人生において、私たちは予期せぬ苦難や葛藤に出会います。しかし、その出来事自体に色がついているわけではありません。それを「避けたい災い」として拒絶するのか、あるいは「自己成長の種」として受け入れるのか。その解釈ひとつで、その後の人生はまったく違う色に染まっていきます。そう考えて、毎回私はその中に何かしらの学びがあると自分に言い聞かせながら乗り越えてきました。もしあなたが今現在の視点で行き詰まりを感じているのなら、必要なのは努力の量ではなく、視点の転換でしょう。
固定観念(色眼鏡)を外し、新たな視点を取り入れること。それこそが真の学びであり、私たちが人間として深まっていくプロセスです。新緑の緑がだんだん濃くなっていずれ黄や赤に色づくように、私たちも常に変化しています。それは決して止められないものです。見た目も考え方も変化を続けるもの。辛さを経験した分だけ、周りに愛を持って接することができるようになります。捉え方ひとつで「苦しみ」を「慈しみ」へと昇華させることができます。私が苦しんでのたうち回った時に救ってくれたのはマッサージでした。それは耐えられない瞬間を唯一和らげてくれる存在でした。そこに言葉は必要ありませんでした。だから、私はダブルヨガをやっています。
一人では凝り固まってしまう視点も、生身の人間と対峙し、呼吸を合わせることで、柔らかく解き放たれていきます。苦難を否定せず、その奥にある物語を察し、学びとして受け入れる。その柔軟な精神性こそが、私が世界へ届けたい「ダブルヨガ」の真髄です。 |
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■個人主義と利己主義
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何かに束縛されて、思ったように行動できないことは、手足が縛られていることです。ひとりの成熟した個人として自由であることは、人生の最期に笑うために何よりも大切なことかもしれません。ただ、「個人主義」と「利己主義」を混同してはいかんと思います。個人主義(Individualism)は 「個の自立」を意味します。自分自身の足で立ち、自分の内面(真我)を見つめること。一方、利己主義(Egoism)は 「自我(エゴ)の肥大」です。他者を道具として扱い、自分の利益だけを追うこと。「自分勝手に振る舞うこと」と「自分を大切にすること」には大きな違いがあります。利己主義は「自分と他人の間に壁を作る」ことですが、ダブルヨガは「自分を整えて、相手との境界線を溶かす」ことを目指します。「自分さえ良ければ」という利己的な視点は、結局自分を孤立させ、苦しみを生むことにつながります。
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| ■ 言葉で考えないこと。 |
言葉は意思疎通を図るためのツールです。でも、言葉があるから、理屈が生まれ、屁理屈が生まれます。しかし、言葉が巧みで、細かな表現ができることが生きる上で最も大切なことではないと思います。言葉には限界があります。微妙な複雑な感情を全て、言葉で表現することはできません。通常私たちは助詞や前後関係、つなぎ方でそれを判断しています。同じ言葉も、前後関係によって、プラスの意味やマイナスの意味に変わります。プラスマイナス両方の意味を同時に表現する場合もあります。受け取る側の先入観や感性によっても、それがほめ言葉であったり、皮肉を含んでいたりします。SNSやラインでのやり取りが主流になった世界では、雑な表現が横行しています。ひとつの単語も受け取り方や背景によって、その意味やニュアンス、真意が異なってきます。言い回しには、皮肉や逆説もあります。互いにわかりあえたかな?と思っても、どうもやっぱり食い違っているということはしばしば起きることです。これは、仕方がないことです。どちらか一方が悪いということではありません。個々の経験や価値観がもともと異なっているために起きる問題です。言葉だけでコミュニケーションを図ろうとすること自体にそもそも無理があるということです。
武士道では「慮る(おもんばかる)」ということを重要視してきました。言葉そのものだけでなく、言葉の前後左右にある意味や思いを感じとって知ること。周囲の状況、立場関係、関係性、行動、表情、動作などから、思いをめぐらして、真意を読み取ることが必要だとされてきました。相手の思いをきちんと受け止めなければ、人間関係を悪くします。相手の思いを読み取るためには、まず、自我を抑えて客観的な視点を持たなければできません。 |
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| ■ 進行形の価値 |
スピリチュアル系のワークショップでは、「あなたはそのままでいい。あなたは存在しているだけで価値がある」というメッセージを参加者に投げつけます。私はこれに違和感を感じます。
「そのままでいい」という全肯定は、個人の「磨き(修練)」を放棄させ、結果として利己主義(エゴの増長)を助長しかねません。スピリチュアル界隈で多用される「そのままでいい」という言葉は、ダブルヨガの哲学から見ると「進化の停止」を意味してしまいます。
ヨガ(結合)とは、今の自分を超えて他者や世界と調和する「プロセス(動き)」です。自然界は無常です。留まることなく動き続けるように設計されているものです。『そのままでいい』という言葉は、一見優しい救いに聞こえますが、実は個の成長を止める残酷な言葉でもあります。承認欲求という感情は、人間が持つ自然な欲求です。
しかし、それを『満たして終わり』のゴールにしてはいけません。スピリチュアルな甘言にある『そのままでいい』という全肯定は、進化の停止、すなわち精神の死を意味します。忍性菩薩が倒れるまで道を作り続けたように、私たちは常に『未完成』であり、高みを目指して動き続けるプロセスそのものにこそ、真の価値があるのです。資格を取れば安心だとか、何かを覚えたからといって、それがゴールではないはずです。自分を認めてほしいという承認欲求は、感情としては理解できます。しかし、停止がゴールではありません。高みを目指すための進行形そのものが幸せなのです。動いていること自体に価値があるのです。ゴール設定をしても、そこに到達したら、別の望みが生じていて、どこまで行っても満足することはできないからです。ダブルヨガにおいて、調和とは静止した状態ではなく、相手と響き合いながら絶えず微調整を繰り返す『進行形』の運動を指します。ゴールに到達しても、また新たな望みが生まれる。それは不満足ではなく、生命がさらなる高みへと拍動している証です。満たされないことを嘆くのではなく、動き続けている自らの躍動をこそ、誇りに思うべきなのです。 |
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| ■ 有言実行と不言実行について |
父から「不言実行に価値がある」と教わりました。中学生だった私は、『言葉にしてこそ意志が宿るのではないか』と、有言実行こそが正義だと信じ、反発しました。しかし、極楽寺の地で忍性菩薩の足跡を辿り、ダブルヨガという『対話の行』を深める中で、ようやく父の言葉の深淵が見えてきました。有言実行は、時に『認められたい』という承認欲求の盾になります。それに対し、不言実行とは、言葉というノイズを捨て、ただ純粋に行いそのものと一体化するプロセスです。『何をするか』を語るエネルギーを、すべて『今どう動いているか』という進行形に注ぎ込む。そこには、ゴールに到達した後の虚無感ではなく、絶えず更新され続ける生命の充実感があります。有言実行は、宣言することで自分を追い込み、他者を巻き込む「外向的なエネルギー」。これは「個」を確立し、世界に自分を証明しようとする躍動的なヨガです。これに対し、不言実行は、言葉を介さず、ただ黙々と行動(カルマ・ヨガ)に身を捧げる。これは「自分を認めてほしい」というエゴを削ぎ落とし、「ただその行いと一体になる」という高度な自己修練です。ヨガの文脈では、言葉(マントラ)はエネルギーですが、同時に執着やエゴ(アハンカーラ)を生む刃にもなります。言葉は時に、鋭い刃となります。良かれと思って放った言葉が、相手の心に反発の種をまき、不協和音を生むことがあります。中学生の頃の私が『有言実行』に固執したのは、言葉で自分を定義し、他者に認めさせたかったからかもしれません。しかし今、この極楽寺の地で忍性菩薩の背中を追う時、全く別の景色が見えています。それは、調和のためにあえて自分が『埋もれる』ことの圧倒的な美しさです。ダブルヨガにおいて、最高のパフォーマンスとは『私を見てくれ』という自己主張が消えた瞬間に訪れます。自分が土台となり、相手の呼吸に同調し、個としての主張を捨てて全体の一部になる。その時、二人の境界線は消え、言葉を超えた『静かなる共鳴』が場を動かし始めます。気づきとは、誰かに与えられるものではなく、整った場(フィールド)の中で自ずと芽吹くものです。私はこの一座で、多くを語るリーダーではなく、皆さまが心地よく流れるための『道』になりたい。自らが埋もれることで、皆さまの中に眠る純粋な躍動が引き出される。その不言の循環こそが、私が父の教えから学び、この由緒ある地で実践したいと願う『真の調和』なのです。 |
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| ■ 言動一致について |
私は決して奢ることも卑下することもなく、いつも晴れ晴れとした気持ちで日々を過ごしています。これが何よりも心を整えておくための習慣です。言動を一致させることは、心身の「チューニング」を合わせることです。「約束を守る」という当たり前の日常の習慣は、心のノイズを消し去る技術です。雑音(言い訳や不一致)が消えるからこそ、今まで聞こえなかった微細な変化や、相手の呼吸の揺らぎに気づけるようになるものです。自分に嘘をつかない人は、自分を卑下する必要がありません。他人に自分を認めてほしいという気持ちさえ生まれません。承認欲求とは、自分の中に空いた『不一致という穴』を他人の言葉で埋めようとする行為にほかなりません。私もあなたもそれ以上でないし、それ以下でもありません。この世界には完成していない進行形の人間しか存在していません。ただ、「言動を一致させる。」ただそれだけのことが、これほどまでに心をハレバレとさせ、視界をクリアにするのかと時々驚かされます。約束を守り、自分に嘘をつかない。この『当たり前』の積み重ねは、自分の中に揺るぎない背骨を通す作業です。軸が通れば、余計な不安や迷いというノイズが消え、世界は驚くほど静かになります。すると、今まで見逃していたような心の微細な変化や、季節の移ろいにさえ敏感に気づけるようになるのです。自分を卑下することも、誰かに認めてほしいと媚びることもありません。『私は、私の言葉の通りにここにいる』という圧倒的な自信。そのすっきりとした境地こそが、私がこの極楽寺の地で伝えたい『個』の在り方です。言い訳という霧の中に隠れるのではなく、陽の光を浴びた忍性菩薩の道のように、ただ真っ直ぐに、清々しく。その潔い心で他者と向き合うとき、私たちは初めて、真の調和を体験できるはずです。
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| ■ 奪わず、壊さず、ただ響き合う |
| 何かを生産すれば、どこかで資源が失われる。それが現代の経済合理性かもしれません。しかし、私が選んだ『触れる』という仕事は、地球を傷つけず、土壌を汚さず、ただ人の内側にある輝きを引き出すものです。これは、机上の空論でも、甘い宗教的理想でもありません。自らの手で価値を生み出し、誰の犠牲も強いない『清らかな自立』です。ダブルヨガが目指すのは、一方が奪う関係ではなく、双方が高まり合う共鳴です。 |
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| ■正解を探さないこと |
正解を探していては永遠に幸せになれないと思います。現代の日本人は思考することを忘れてしまったように思える瞬間があります。多くの学校では考えることより正解を出すことが教えられます。会社に入社すれば、想像することより手順を守ることが求められます。だから、自分の考えを持たない人が多い。分からないことはネットで検索して答えを探す。だから大多数の意見に同調することしかなくなる。現代社会は自分の意見を持たなくても済まされる社会です。
調和とは、自分の意見を持たずに多くに迎合することではありません。自分の考えを持つことは、自分の考えで生きることに他なりません。自分の考えを持つことは、自分の人生に責任を持つことです。運命とか、環境とか、状況とか、いろいろあるかもしれませんが、そういった条件があったうえで、自分の人生を全うすることです。
そのためには自分の思想を持つこと以外方法はありません納得した人生を全うするためには、自分の考えを持つこと以外ないのです。会社や組織や社会制度に頼ることではなく、自分の足で立ち上がることです。幸せとは相対的な価値観です。人によって幸せのカタチは異なるものです。他人の真似をしても仕方ありません。他人の価値観はどこまで行っても他人の価値観です。ですから、自分自身の考えを持つことです。幸せになりたいなら、自分の思想が中心軸として存在していなければなりません。中心軸に沿っていれば、幸せを感じることができます。中心軸からから離れていれば不幸だということになります。基準がなければ、幸せにもなれないし、不幸にもなれないということです。
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| ■三島の切腹と雄カマキリの献身 |
「幸せになりたい」と願うとき、私たちの頭には、何かを手に入れ、自分を満たし、長く生き延びる姿が浮かびます。しかし、歴史に名を残したある作家の最期と、自然界の小さな生命の営みを見つめると、全く別の「幸せ」の形が見えてきます。
一人は、作家・三島由紀夫。彼は強靭な肉体を作り上げ、自らの信念を貫くために、衆人環視の中で自ら命を絶つ「切腹」を選びました。言葉だけで理屈をこねているだけの知識人たちをよそに、自らは命をもって彼の信念を証明したわけです。これこそが「丹識」というものなのでしょう。人生をひとつのアート作品として演じ切ったわけです。現代の合理的な視点から見れば、それはあまりに激しく、理解しがたい死かもしれません。しかし、彼は「自分の命を、自分が信じる最も美しい大義のために使い切る」という瞬間に、一人の人間としての究極の充足感を感じていたといいます。
もう一つは、カマキリの雄の姿です。カマキリの雄は、交尾が終わったあと、雌にその身体を食べられてしまうことがあります。逃げることもできるはずの彼らが、自ら雌の口元へ身体を差し出す。それは「自分が生き残ること」よりも、「自分の命を次の世代の糧(エネルギ―)として捧げること」を選んでいるかのようです。
三島の切腹も、カマキリの献身も、共通しているのは「自分一人の生存(エゴ)」という執着を捨て、もっと大きな「物語」や「循環」の一部になろうとした点にあります。三島由紀夫が求めた「大義に殉ずる至福」と、カマキリの雄が交尾の末に雌に喰われる「生命の献身」。これらは、個体の生存(エゴ)を超えた、「生命のプログラムの完結」という一点で繋がっています。自分の得だけを考え、損をしないように流されて生きることは、安全かもしれません。しかし、それではいつまで経っても「失うことへの恐怖」から逃れられません。一方で、自らの命を「誰かのため」「何かのため」という大きな流れに投じ、自分を使い切る覚悟を持てたとき。その瞬間に訪れるのは、恐怖ではなく、深い「納得」と「静寂」です。自分という小さな殻を突き破ったとき、景色は一変します。それは美学であり、気高さの証明です。永遠に輝く星になるということです。
考えてみれば、「自分のために幸せになろう」と躍起になっているうちは、幸福は常に「手に入らない対象」として逃げていくということです。「人生の目的」や「幸福というゴール」を設定することは、未来に人質を取られ、今を「手段」に貶める行為に他なりません。幸せとは、得るものではなく、使い切ることなのかもしれません。
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| ■信じることと疑うこと |
信じることと疑うことは一般的には反対の意味を指します。信じることはいいことで、疑うことは悪いことだという認識です。しかし、よく考えてみると信じることと疑うことは反対語ではなく同義語です。私たちはわかりきってることは信じているとは言いません。知っていると言います。信じるという言葉は、分からないものを指す言葉だからです。厳密に言えば、信じることもわからないことも、どちらもわからないということです。バランスの違いに過ぎません。私たちはどうなるかわからない時間を日々送っています。人生とは先のことはわからない時間を過ごすということです。不安を感じるのは当たり前のことです。だから、何かを信じて歩みを進めるしかありません。私は飛行機が苦手なタイプですが、その時には無事に着陸すると信じるしかありません。信じるからこそ上手くいかなかったときに裏切られたと感じます。信じなければ傷つくこともありません。それでも何かを信じなければ明日を生きる勇気も湧いてきません。希望、信念、志。これらはある時、失望、後悔、恐怖に変わる可能性を秘めています。信じることは、強さであって弱さでもあるということです。だから、信じてもいいし、疑ってもいいわけです。東洋医学的な見地から見れば、この二つは「陰」と「陽」の躍動です。東洋の智慧が教えるのは、「信じる」だけでも「疑う」だけでもない、その真ん中に立つ「中道」の姿勢です。般若面が、見る角度によって怒り(陽)にも悲しみ(陰)にも見えるように、私たちの心もまた、信じる情熱と疑う冷静さの間を揺れ動いています。その揺らぎ自体を否定せず、どちらかに偏りすぎない状態を保つことこそが、心身を養する要です。何を信じて何を疑うかは自分次第です。それは自分の心を映す鏡に過ぎません。心がざわつくなら、静かに目を閉じて自分に向き合って内面を探求するのがいいと思います。それでも考えがまとまらないなら、施術を受けてみてください。きっと頭の中が空っぽになります。 |
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