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WHAT'S WYOGA
PHYLOSOPHY
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ESSAY
SATSANG
SESSION
ダブルヨガとは ダブルヨガ的思想 渡邊ソウイチロウは何者 随想 現代の禅問答 一座を共にする
 
WYOGA MASSAGE DOJO
Dissolve the Ego. Behold the Harmony.
「自分を溶かし、調和を観る」
— 創始者 渡邊ソウイチロウ 私塾 —
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【PHYLOSOPHY】
 
■WYOGA DOJO 【What's WYOGA】ダブルヨガとは▶Phylosophy ダブルヨガ的思想
 
 
 
 
 
 
【PHYLOSOPHY】
ダブルヨガ的思想
 
 
■人生を豊かにするWYOGA哲学
人生を豊かにしたいなら
西洋的な価値観に縛られないこと
東洋的思想で現代を生きること
お金やステータスなどの他人が作り出した幻想に縛られないこと
目標を決めることも結果を求めることもしない
未来を想定したり、目標を決めたりしないから、
我慢するというストレスがない
失敗するかも?という不安もない
過去は懐かしむものであって悔むことなどしない
周りからの評価を気にすることもないから、何かに縛られることもない
誰かに縛られることも自分の作り出した幻想に縛られることもない
だから自分の好きなことだけに集中して没頭することができる
自分がいつも自由であることを実感し軽やかな自分でいられる
今この瞬間の一瞬一瞬を全力で生きることができる
この軽やかさが運命や環境、周りの人たち、
自分を取り囲むすべてに感謝する気持ちを生む
これが自分らしく生きるということに他ならない
疲れを感じたら休めばいい
眠くなったら寝ればいい
好きなものを食べればいいし
1日に何回風呂に入ってもいい
何かを決めて自分を縛り付けることもない
思ったように感じたままに
川の流れに身を任せるように
自分の人生を受け入れて味わう
二度と繰り返されない今を愛おしく思う
だから誰かを責めることもしないし
誰かを疎むこともない
ただそこにいるだけ
 
 
■ エネルギーを止めないこと

私たちは、日常生活の中ではいろいろなことに直面します。いいことも、悪いことも、そのまま受け入れる覚悟を持つことです。
いい時も辛い時も巡ってくるものです。だから平常心でいることです。気にしないことです。他者との循環、つまり「自利利他」の輪から外れてしまうと、人は「孤立した自我(エゴ)の牢獄」に閉じ込められてしまいます。

まず自分が「個」として存在しないこと。
誰に対しても繕わず、格好つけず、ありのままでいることが大切です。そうすることで、エネルギーは循環します。循環がない状態は、水が流れない「澱(よど)んだ水たまり」と同じです。自分一人の利益だけを追う(自利のみ)と、一時は潤うように見えますが、実は常に「もっと欲しい」「失うのが怖い」という強烈な欠乏感に支配されます。他者からの感謝や愛という「新しい水」が入ってこないため、心は次第に乾燥し、乾きを癒やすためにさらに金銭や地位という幻想を追い求める悪循環に陥ります。循環を信じられない人は、自分の価値を「目に見える数字」や「世間の評価」に依存せざるを得なくなります。「正解」という名の鎖に縛られることになります。その結果、「こうあるべき」という社会の正解に自分を無理やり当てはめ、自分の心(内なる声)を聞く力を失います。これは「自分の人生をデザインできない」状態、つまり「他人の人生の脇役」として生きる悲劇です。「自分と他者は別物である」という二元論に固執すると、他者はすべて「競争相手」か「利用対象」になります。すると、常に周囲を警戒し、誰かに追い抜かれることや、失敗して評価を下げることを極端に恐れるようになります。この「恐れ」こそが、同調圧力を生み、人々を不自由にし、攻撃的にさせる元凶です。世の中も変化し続けていますが、自分自身も変化しています。どちらか一方が変化しただけでも違った現実が表れるのに、どちらも変化しています。一瞬一瞬、同じことはありません。すべての出来事に対して一期一会で向き合うべきでしょう。

 
 
■ 二元論で考えないこと

世界は、相反する二つの力で編まれています。光と影、動と静、自と他。私たちは往々にして、そのどちらかに偏り、あるいは白黒の二元論で物事を裁こうとしまいます。立場が変われば、正誤は反転します。見る角度によってそれらは違って映ります。陰陽太極図(太極図)の「黒の中に白があり、白の中に黒がある」という構造は、この世界の全てを表わしています。白(光)が強まれば、その中心には必ず黒(影)の種が生まれます。逆に、真っ暗な闇(黒)のどん底にも、必ず次の光(白)が宿っています。これは、「自分の中に相手がいて、相手の中に自分がいる」というダブルヨガの真理です。

自分だけの正義(白)を突き通すのではなく、相手の痛みや呼吸(黒)を自分の一部として受け入れることで、二人の関係は初めて滑らかに回り始めます。陰陽太極図は止まっているように見えて、実は猛烈な勢いで回転しています。白が黒へ、黒が白へと絶え間なく移り変わる「進行形」の動きそのものです。「このままでいい」と立ち止まることは、この回転を止めること。私たちは、常に変化し、補い合い、巡り続けることで、一つの完璧な円(和)を描き出します。ダブルヨガの哲学は、「白であって黒である」という矛盾を排除しません。それは空だからです。

般若の面(剛)を被り、慈愛の手(柔)で触れます。
激しいストレッチ(動)の中に、絶対的な静寂(静)を見出します。
自分(個)をしっかり持ちながらも、相手のために「埋もれる」瞬間がある。
強い力(陽)を出す時もあれば、柔らかく受け止める(陰)時もある。
この「白」と「黒」のダイナミックな入れ替わりこそが、
誰も傷つけず、何も壊さない、至高のエネルギー循環(タオ)なのです。

 
 
■ 現在進行形でいること
道にゴールはありません。
どんなに瞑想をしても、生きている限り我をなくすことは不可能です。
我(エゴ)を完全になくすことは叶わぬからこそ、向き合い続けるプロセスそのものが修行なのです。
どこまで行っても現在進行形でしかありません。
ダブルヨガは、完成された技術をなぞるための教室ではありません。
身体という小宇宙を通じて、宇宙の大きなリズムと同期する試みです。
あなたは今、自分の呼吸の音を聞いてみてください。
その音に意識を向けた瞬間、あなたは『思考』から離れ、自らを俯瞰する位置に立っています。
自分を俯瞰して客観的な視点から見つめなおすこと。
そのスタンスこそが、ダブルヨガの歩みを始める最初の一歩となります。
 
 
■ なぜ、般若の面を被るのか。

「なぜ、般若の面を被るのか。」それは、私という「個(エゴ)」を消し、透明な導き手となるために他なりません。「陰陽」の考え方でいえば、般若はまさに「光(美しさ)の中に宿る闇(執着)」が表出した姿です。能楽の世界において、般若の面は特定の誰かというより、「高貴な家柄の女性」や「若く美しい娘」の成れの果てとして描かれています。「そのままでいい」と感情を放置すれば、嫉妬は制御不能な鬼(闇)となります。「怒り」と「悲しみ」、そして「智慧」。これらが一人の人間の中に混ざり合い、循環しているのが般若の真実です。

多くの能の物語では、鬼となった女性も最後は高僧の祈りによって「智慧(般若)」に触れ、怒りから解放されて成仏します。般若の面は感情や執着に囚われた視界を捨て、自分自身を高い空から俯瞰するためのものです。術者と受け手の境界が消え、エネルギーの循環だけがそこに在る状態。この「無我の俯瞰」こそが、現代社会の同調圧力や恐れから自由になり、自らの人生を主体的にデザインするための鍵になると考えています。「私は私であって、同時に私は私でない。」つまり、固定されることなく、波のように揺らいでいます。これは、量子物理学の理論そのものです。第3者がそれをどのように理解するかは観察者の想いによって形作られたものに過ぎません。

 
 
■恥を知る日本文化

日本文化は「恥」の文化です。かつて日本人は「お天道様が見ている」と考え、誰も見ていなくても自分の不誠実を恥じました。それは決して、他人の目を恐れて縮こまることではありません。本来の恥とは、『自分の良心に対して顔向けできない自分』を許さないという、内なる美学です。

しかし現代では、損得勘定や「バレなければいい」「誰かのせいにすればいい」という保身が、恥の感覚を麻痺させています。「計算、打算、保身」これらは、自らの魂に対する最大の不誠実であり、恥ずべきことです。リスクを数えて動かない評論家は、一見賢く見えますが、その心に『ハレバレ』とした光は差しません。なぜなら、自分自身の不作為という恥を、心の奥底で知っているからです。泥にまみれても、なお損得を超えて動くという『恥を識る者』の誇りは、時代を超えても輝くものです。評論家として外側から眺めるのをやめ、自ら渦中へ飛び込む。泥にまみれ、傷つきながらも、言ったことをやり抜く。その不格好なまでの誠実さの中にこそ、他人の承認など必要としない、ハレバレとした誇りが宿ります。保身の殻を脱ぎ捨て、計算を捨て、ただ目の前の命と響き合う。恥を識るからこそ、誠実であれる。その静かで強い日本人の精神性を私は大切ににしたいと考えています。

 
 
■流されながらでも、納得して生きる

ゴールや目的を設定して、まだ足りない自分を痛感しながら日々を過ごすより、
何も考えずに一瞬一瞬を精一杯に生きることのほうがいい。
何のために生まれてきたか?なんて考える必要はない。
考えても答えはない。
どれだけ瞑想したところで自分の中のエゴは決してなくならない。
だから、完成することはない。
未完成であって、その先も未完成のまま終わるだけ。
未熟な自分に気付いて、ありのままを受け入れるだけ。
心の声が聞こえてきたら、そのまんま動くだけのこと。
思ったように行動するだけ。
思ったように行動するだけだから、決して悔いは残らない。
思ったようにならないかもしれないけど、それを受け入れればいい。
流されてしまうなら流されてしまってもいい。邪魔が入るかもしれない。
そしたら、怒ればいいし、泣けばいい。
そして落ち着いたらまた歩き出せばいい。
疲れたら休めばいい。それを繰り返すだけ。
そうすれば納得した終わりを迎えることができる。
少なくとも私はこう考えて生きています。

 
 

■不完全なままで美しく

私たちはいつから、「完璧」という終わりのない坂道を登り始めてしまったのでしょうか。
どこまで行っても、この世に「完璧」というゴールはありません。
完璧を追い求める心は、今の自分に「足りない」という印をつけ、
自らを縛り、苦しみを生む種になってしまいます。
何かを手に入れれば幸せになれる、そう信じていたかもしれません。
けれど、外側にある「何か」を満たしても、心の本質的な渇きが癒えることはありません。
「こうあるべき」と望んだ未来像や、期待に満ちた自分を追いかけるだけが、幸せへの道ではないのです。
大切なのは、今、この瞬間の「不完全な自分」をそのまま抱きしめること。
欠けているからこそ、そこには新しい風が吹き込む余白があります。
未完成だからこそ、変化し続ける命の躍動があります。
手に入れることでも、到達することでもなく。
ただ、不完全なままの自分を許し、今ここに在る。
その瞬間に、本当の安らぎが静かに広がり始めます。

 
 
 
木=仁 火=礼 土=信 金=義 水=智
 
■ 五行(自然の元素)と五常(儒教の道徳)
五行(自然の元素)と五常(儒教の道徳)は密接に対応しています。これは前漢時代の儒学者である董仲舒(とうちゅうじょ)などが、バラバラだった「自然の法則(五行)」と「人間の道徳(五常)」を統合したことで体系化されました。「自然界に法則があるように、人間界にも守るべき不変のルールがある」という考え方に基づいています。「仁・礼・信・義・智」単に「これらを守れ」というだけでなく、五行のサイクル(相生・相剋)と同じように、道徳もバランスが大事だと説いています。 例えば「仁(優しさ)」があっても、ルールである「礼」や、厳しさである「義」がなければ、ただの甘やかしになってしまいます。五行で「土」が中央に位置するように、五常でも「信(信頼・誠実)」がすべての徳の土台であるとされています。このように、東洋思想では「自然のサイクルに沿って生きること」=「徳を積んで正しく生きること」とが、一つのシステムとして繋がっています。当たり前だと言われるかもしれませんが、「心と身体はつながっている」ということを東洋的思想で掘り下げてみようと思います。
 
 
■ 「木」と「仁」の関係

「木」と「仁」の関係は、エネルギーが「内から外へと伸びやかに広がり、生命を育む」という性質でつながっています。
東洋医学における「木」の性質を持つ臓腑は「肝(かん)・胆(たん)」です。ここが健やかであるかどうかが、他者への思いやりである「仁」の深さに直結します。「肝」の気血が豊かで、のびのびと「木」が枝を広げているような状態のとき、人は自然と周囲に対して優しく、寛大な「仁」の精神を発揮できる、と考えられています。「最近、ついイライラして身近な人に厳しく当たってしまうな」と感じるとき、それは性格の問題ではなく、「木(肝)」のエネルギーが滞っているサインかもしれません。

1. 「木」のエネルギーと「仁」の結びつき
成長と伸展の力:「木」は春に芽吹き、天に向かってまっすぐ伸びるエネルギーです。人間関係において、相手の成長を願い、温かく見守る「仁(慈愛)」は、植物が枝葉を広げて周囲に木陰を作るような、包容力のある生命力そのものです。しなやかな樹木は風に吹かれても折れません。この柔軟さが精神面に現れると、自分と異なる意見も受け入れる「心の広さ」となり、他者を慈しむ余裕(仁)が生まれます。

2. 経絡(肝・胆)の状態と「仁」の変化
肝は「疏泄(そせつ)」といって、気血の流れをスムーズにコントロールする司令塔の役割を担っています。肝の血が枯れると、心の余裕が失われます。自分のことで精一杯になり、他者を思いやる「仁(慈愛)」の精神を発揮できず、無気力になったり、周囲に対して無関心(冷淡)になったりしやすくなります。気がスムーズに流れないと、フラストレーションが溜まり、些細なことでイライラします。儒教では「怒りは仁を損なう」とされ、トゲのある言葉や態度で相手を傷つけてしまうなど、「仁」に反する行動をとってしまいます。

3. 「胆」による決断の力
「仁」を形にするには、ただ優しいだけでなく、時には相手のために行動する勇気が必要です。「胆」は決断を司るため、ここがしっかりしていると、迷わずに正しい愛(仁)を注ぐことができます。

 
 
■「火」と「礼」の関係

東洋医学における「火」の性質を持つ臓腑は「心(しん)・小腸」です。ここが整っているかどうかが、社会的なマナーや節度である「礼」に直結します。「心」の血が満たされ、穏やかに「火」が灯っている状態のとき、人は自然と相手を敬い、程よい距離感で接する「礼」の精神を発揮できる、と考えられています。対人関係で「少し丁寧さが欠けてしまったな」とか、逆に「気を遣いすぎて疲れたな」と感じるようなとき、「火(心)」のバランスが崩れているタイミングなのかもしれません。

1. 「火」のエネルギーと「礼」の結びつき
明るさと照らし出す力:「火」は暗闇を照らし、物事をはっきりさせます。人間関係において、相手を尊重し、自分の立ち位置を明確にする「礼(礼儀・節度)」は、人間関係を明るく円滑にする光のような役割です。火は上に燃え上がります。これが精神面では「情熱」や「喜び」になります。喜びがあるからこそ、人は相手を敬う「礼」を尽くすことができます。

2. 経絡(心・小腸)の状態と「礼」の変化
心(しん)は「神(しん:精神・意識)」が宿る場所とされています。心の気が足りないと、精神的に卑屈になったり、おどおどしたりして、堂々とした「礼(節度ある振る舞い)」ができなくなります。また、喜びを感じにくく、冷淡な態度をとってしまうこともあります。逆に、火が強すぎると、感情が高ぶりすぎて「礼」を失います。具体的には、多弁(喋りすぎ)になったり、馴れ馴れしすぎたり、相手の領域を侵すような不作法な振る舞いにつながります。

3. 「小腸」による分別の力
「礼」には「分をわきまえる(区別する)」という意味もあります。小腸の働きは、必要なものと不要なものを分ける「清濁の分別」です。これが精神面に反映されると、「やっていいことと悪いこと」を正しく見極める力となり、結果として「礼にかなった行動」ができるようになります。

 
 
■「土」と「信」の関係

「土」と「信」の関係は、エネルギーが「万物を受け入れ、安定させ、育む」という性質でつながっています。東洋医学における「土」の性質を持つ臓腑は「脾(ひ)・胃(い)」です。ここがしっかりしているかどうかが、人としての誠実さや信頼である「信」に直結します。「脾胃」が健やかで、どっしりと「土」が安定している状態のとき、人は自分を信じ、他者からも信頼される、誠実な「信」の精神を発揮できる、と考えられています。「土」は五行の中心です。もし食欲がなかったり、胃腸が重く感じたりするときは、知らず知らずのうちに「人との信頼関係」や「自分への自信」に疲れを感じているサインかもしれません。

1. 「土」のエネルギーと「信」の結びつき
「土」は季節の変わり目(土用)を司り、他の四行(木・火・金・水)を支える中心的な存在です。人間関係においても、揺るぎない土台となる「信(誠実・信頼)」は、すべての徳目の根本となります。大地が種を受け入れ、作物を育てるように、人の言葉や約束を重んじ、嘘偽りなく形にする力が「信」です。

2. 経絡(脾・胃)の状態と「信」の変化
脾(ひ)は「運化(うんか)」といって、食べ物からエネルギーを取り出し、全身へ送り出す「後天の本(生きる力の源)」です。脾の気が弱まると、思考が定まらず、疑い深くなります。自分に自信が持てないため、他人に対しても疑心暗鬼になり、約束を違えたり、優柔不断になったりと、「信(誠実さ)」を欠いた振る舞いになりがちです。思い悩みすぎること(思慮過度)は脾を傷めます。執着心が強くなりすぎると、自分の利益や考えに固執し、相手との信頼関係を損なう「独りよがりな言動」につながります。

3. 「胃」による受容の力
「胃」は食べ物を受け入れる器です。これが精神面に反映されると、相手の言葉を素直に受け止める「受容力」となります。正しく受け止めるからこそ、正しく応えることができ、そこに「信」が生まれます。

 
 
■「金」と「義」の関係

「金」と「義」の関係は、エネルギーが「内側へ凝縮し、不純物を削ぎ落として形を整える」という性質でつながっています。東洋医学における「金」の性質を持つ臓腑は「肺(はい)・大腸(だいちょう)」です。ここが澄んでいるかどうかが、人としての正義感や筋を通す「義」に直結します。「肺」が清らかで、「金」のエネルギーが鋭く研ぎ澄まされている状態のとき、人は感情に溺れず、冷静に正しさを判断して実行する「義」の精神を発揮できる、と考えられています。秋に喉を痛めたり、肌が荒れたりするときは、もしかすると「自分の信念(義)」と「現実の妥協」の間で葛藤が生じているサインかもしれません。

1. 「金」のエネルギーと「義」の結びつき
「金」は秋を象徴し、実りを収穫すると同時に、不要なものを削ぎ落とす季節です。人間関係において、何が正しく何が誤りかを見極め、私欲を捨てて公の理(ことわり)に従う「義(正義・道義)」は、鋭い金属が物を断ち切るような潔い力です。金属は熱で形を変え、冷えて固まると強固になります。自分の信念を曲げず、困難に立ち向かう「意志の強さ」が「義」の本質です。

2. 経絡(肺・大腸)の状態と「義」の変化
肺は「呼吸」を通じて天の気を取り込み、全身の気を引き締める役割(粛降作用)を担っています。肺の気が弱まると、悲しみや憂いの感情に支配されやすくなります。精神的な「芯」が通らなくなり、物事を途中で投げ出したり、損得勘定に流されたりと、「義(筋を通すこと)」を貫く勇気が持てなくなります。気が張り詰めすぎると、潔癖になりすぎたり、他人の欠点を厳しく突きすぎたりします。「義」が「偽」や「犠(犠牲)」に寄り、融通の利かない頑固な正義感で周囲を威圧してしまうことがあります。

3. 「大腸」による伝導と排泄の力
大腸は「不要なものを手放す」役割です。これが精神面に反映されると、過去の執着や未練を捨て、今なすべき正しい道(義)を選ぶ「決断力」となります。

 
 
■「水」と「智」の関係

「水」と「智」の関係は、エネルギーが「低い方へと流れ、静かに深く蓄えられ、万物を潤す」という性質でつながっています。東洋医学における「水」の性質を持つ臓腑は「腎(じん)・膀胱(ぼうこう)」です。ここが充実しているかどうかが、物事の真理を見極める知恵である「智」に直結します。「腎」の精が満ち、静水のように心が澄み渡っている状態のとき、人は感情の波に飲まれず、物事の道理を静かに見極める「智」の精神を発揮できる、と考えられています。「水」は生命の終わりと始まりを繋ぐ場所です。もし足腰が冷えたり、耳鳴りがしたりするときは、立ち止まって「自分の本当の目的(智)」を見つめ直すタイミングかもしれません。

1. 「水」のエネルギーと「智」の結びつき
「水」は器に合わせて形を変える柔軟性を持ちながら、どんな隙間にも入り込みます。人間関係や学問において、先入観を持たず、物事の本質を深く理解し、状況に応じて柔軟に対応する力が「智(知恵・叡智)」です。水は冬を象徴し、生命の源を地中深くへ蓄える季節です。表面的な知識ではなく、経験を重ねて自分の血肉とした「深い洞察力」が「智」の本質です。

2. 経絡(腎・膀胱)の状態と「智」の変化
腎は「精(せい)」を蔵し、生命力の根本(先天の本)を司る重要な臓器です。腎の気が弱まると、「恐れ」の感情が強くなります。目先の不安に振り回され、冷静な判断ができなくなります。また、物忘れが激しくなったり、思考が浅くなったりと、「智(深い知恵)」を発揮する心の余裕が失われます。水が滞ると、冷徹になりすぎたり、策を弄して人を操ろうとしたりします。「智」が「狡(ずる賢さ)」に寄り、知恵を悪用して調和を乱すような行動につながることがあります。

3. 「膀胱」による調節の力
膀胱は、体内の水分バランスを調整し、不要なものを排出します。これが精神面に反映されると、膨大な情報の中から「本当に必要な真実」を選び取り、無駄な思考を捨てる「情報の取捨選択」の力となります。

 
 
■「地」と「宙」の役割

「地」心包・三焦と「宙」任脈・督脈には、特定の「五常」は割り当てられていません。その理由は、五常が「五行(木火土金水)」という5つのサイクルに基づいた道徳規範だからです。しかし、これらは「五常を発揮するためのインフラ(基盤)」としての重要な役割を持っています。

1. 心包(しんぽう)・三焦(さんしょう)の役割
これらは五行では「火」に属しますが、君主である「心」を守る「相火(そうか)」と呼ばれます。
心包(しんぽう)は「仁・礼」のガードマンです。心(精神)を包んで守る膜のような存在です。心包が整っていないと、外部からのストレスで心が傷つき、本来持っている「仁(思いやり)」や「礼(節度)」を出す余裕がなくなります。いわば、道徳心を外敵から守るバリアです。

三焦(さんしょう)は「五常」の循環路です。全身のエネルギー(気・水)の通り道です。三焦が滞ると、どんなに「仁」や「義」の心を持とうとしても、エネルギーが全身に回らず、形(行動)にすることができません。五常を「実践」するためのパイプ役です。

2. 任脈(にんみゃく)・督脈(とくみゃく)の役割
これらは「奇経八脈」と呼ばれ、正経(十二経絡)のダムのような役割を果たします。
任脈(体の前面・陰の海)は「徳の器」です。「任」には「担任」「責任」という意味があります。慈しみや養育を司るため、「仁」や「信」を蓄える深い器のような存在です。ここが充実していると、人を受け入れる包容力が生まれます。

督脈(体の背面・陽の海)は「徳の柱」です。「督」には「監督」「統率」という意味があります。背筋を伸ばし、正義を貫く「義」や、筋を通す「礼」の背骨となります。ここがしっかりしていると、信念に基づいた揺るぎない行動が取れるようになります。

【まとめ】
五行(五常):性格や道徳心の「メニュー(種類)」
心包・三焦:そのメニューを調理し、配膳する「キッチンと通路」
任脈・督脈:その活動を支える根本的な「エネルギーの貯蔵庫」
このように、五常という「ソフト」を動かすための「ハードウェア」として、これらの経絡は機能しています。

 
 
 
■ダブルヨガ的思想
人生を豊かにするWYOGA哲学
エネルギーを止めないこと
二元論で考えないこと
現在進行形でいること
なぜ、般若の面を被るのか。
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流されながらでも納得して生きる
不完全なままで美しく
五行と五常
「木」と「仁」の関係
「火」と「礼」の関係
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