 |
|
| |
 |
| |
| ■仮面に何を見るか。それは、あなた自身の心を映す鏡かもしれない。 |
般若の面を前にしたとき、あなたは何を感じますか?表面的な恐ろしさでしょうか。避けたい衝動や、目を背けたくなるような激しい感情でしょうか。もし、そこに「負」のものだけを見るのなら、それはあなた自身が、無意識に「色眼鏡」を通して世界を見ている証かもしれません。人は、自分が金銭に執着していれば、他者をうがった視点で捉え「金儲け主義だ」と批判します。自分の中にある影を、他者や仮面に投影しているに過ぎないのです。
あなたは「激しさの裏側に、守りたかった純粋な愛があったこと」が感じ取れるでしょうか?その面の奥底をじっと見つめてみてください。そこには、必死に生きてきた尊い物語が隠されています。守りたかった愛、癒えぬ悲しみ、そして懸命な生命の輝き。
表面的な「怒り」や「恐れ」を裁くのではなく、その裏側にある背景を察し、丸ごと受け入れ、まとめ上げること。それこそが「慮る(おもんぱかる)」ということであり、人間としての真の奥深さがあります。そしてそれは「ダブルヨガ」が目指す調和の姿です。思い込みの眼鏡を外し、魂の物語に触れるとき、あなたとパートナーの間には、かつてないほど純粋な響き合いが生まれるはずです。
※能における「般若」は、単なる怪物ではなく、「強すぎる想いゆえに、鬼にならざるを得なかった女性」の悲しい姿を象徴しています。般若の正体は、もともとは普通の人間(女性)です。愛する人に裏切られ、届かぬ想いに悶えたりする中で、激しい「嫉妬」や「執念」が抑えきれなくなって、その情念が鬼へと変貌した姿です。その後、鬼は祈りによって調和を取り戻し、結末では静かに去っていく物語です。 |
| |
 |
| |
| ■苦難を慈しみに変える方法 |
人生において、私たちは予期せぬ苦難や葛藤に出会います。しかし、その出来事自体に色がついているわけではありません。それを「避けたい災い」として拒絶するのか、あるいは「自己成長の種」として受け入れるのか。その解釈ひとつで、その後の人生はまったく違う色に染まっていきます。そう考えて、毎回私はその中に何かしらの学びがあると自分に言い聞かせながら乗り越えてきました。もしあなたが今現在の視点で行き詰まりを感じているのなら、必要なのは努力の量ではなく、視点の転換でしょう。
固定観念(色眼鏡)を外し、新たな視点を取り入れること。それこそが真の学びであり、私たちが人間として深まっていくプロセスです。新緑の緑がだんだん濃くなっていずれ黄や赤に色づくように、私たちも常に変化しています。それは決して止められないものです。見た目も考え方も変化を続けるもの。辛さを経験した分だけ、周りに愛を持って接することができるようになります。捉え方ひとつで「苦しみ」を「慈しみ」へと昇華させることができます。私が苦しんでのたうち回った時に救ってくれたのはマッサージでした。それは耐えられない瞬間を唯一和らげてくれる存在でした。そこに言葉は必要ありませんでした。だから、私はダブルヨガをやっています。
一人では凝り固まってしまう視点も、生身の人間と対峙し、呼吸を合わせることで、柔らかく解き放たれていきます。苦難を否定せず、その奥にある物語を察し、学びとして受け入れる。その柔軟な精神性こそが、私が世界へ届けたい「ダブルヨガ」の真髄です。 |
| |
 |
| |
■個人主義と利己主義
|
何かに束縛されて、思ったように行動できないことは、手足が縛られていることです。ひとりの成熟した個人として自由であることは、人生の最期に笑うために何よりも大切なことかもしれません。ただ、「個人主義」と「利己主義」を混同してはいかんと思います。個人主義(Individualism)は 「個の自立」を意味します。自分自身の足で立ち、自分の内面(真我)を見つめること。一方、利己主義(Egoism)は 「自我(エゴ)の肥大」です。他者を道具として扱い、自分の利益だけを追うこと。「自分勝手に振る舞うこと」と「自分を大切にすること」には大きな違いがあります。利己主義は「自分と他人の間に壁を作る」ことですが、ダブルヨガは「自分を整えて、相手との境界線を溶かす」ことを目指します。「自分さえ良ければ」という利己的な視点は、結局自分を孤立させ、苦しみを生むことにつながります。
|
| |
 |
| |
| ■ 言葉で考えないこと。 |
言葉は意思疎通を図るためのツールです。でも、言葉があるから、理屈が生まれ、屁理屈が生まれます。しかし、言葉が巧みで、細かな表現ができることが生きる上で最も大切なことではないと思います。言葉には限界があります。微妙な複雑な感情を全て、言葉で表現することはできません。通常私たちは助詞や前後関係、つなぎ方でそれを判断しています。同じ言葉も、前後関係によって、プラスの意味やマイナスの意味に変わります。プラスマイナス両方の意味を同時に表現する場合もあります。受け取る側の先入観や感性によっても、それがほめ言葉であったり、皮肉を含んでいたりします。SNSやラインでのやり取りが主流になった世界では、雑な表現が横行しています。ひとつの単語も受け取り方や背景によって、その意味やニュアンス、真意が異なってきます。言い回しには、皮肉や逆説もあります。互いにわかりあえたかな?と思っても、どうもやっぱり食い違っているということはしばしば起きることです。これは、仕方がないことです。どちらか一方が悪いということではありません。個々の経験や価値観がもともと異なっているために起きる問題です。言葉だけでコミュニケーションを図ろうとすること自体にそもそも無理があるということです。
武士道では「慮る(おもんばかる)」ということを重要視してきました。言葉そのものだけでなく、言葉の前後左右にある意味や思いを感じとって知ること。周囲の状況、立場関係、関係性、行動、表情、動作などから、思いをめぐらして、真意を読み取ることが必要だとされてきました。相手の思いをきちんと受け止めなければ、人間関係を悪くします。相手の思いを読み取るためには、まず、自我を抑えて客観的な視点を持たなければできません。 |
| |
 |
| |
| ■ 進行形の価値 |
スピリチュアル系のワークショップでは、「あなたはそのままでいい。あなたは存在しているだけで価値がある」というメッセージを参加者に投げつけます。私はこれに違和感を感じます。
「そのままでいい」という全肯定は、個人の「磨き(修練)」を放棄させ、結果として利己主義(エゴの増長)を助長しかねません。スピリチュアル界隈で多用される「そのままでいい」という言葉は、ダブルヨガの哲学から見ると「進化の停止」を意味してしまいます。
ヨガ(結合)とは、今の自分を超えて他者や世界と調和する「プロセス(動き)」です。自然界は無常です。留まることなく動き続けるように設計されているものです。『そのままでいい』という言葉は、一見優しい救いに聞こえますが、実は個の成長を止める残酷な言葉でもあります。承認欲求という感情は、人間が持つ自然な欲求です。
しかし、それを『満たして終わり』のゴールにしてはいけません。スピリチュアルな甘言にある『そのままでいい』という全肯定は、進化の停止、すなわち精神の死を意味します。忍性菩薩が倒れるまで道を作り続けたように、私たちは常に『未完成』であり、高みを目指して動き続けるプロセスそのものにこそ、真の価値があるのです。資格を取れば安心だとか、何かを覚えたからといって、それがゴールではないはずです。自分を認めてほしいという承認欲求は、感情としては理解できます。しかし、停止がゴールではありません。高みを目指すための進行形そのものが幸せなのです。動いていること自体に価値があるのです。ゴール設定をしても、そこに到達したら、別の望みが生じていて、どこまで行っても満足することはできないからです。ダブルヨガにおいて、調和とは静止した状態ではなく、相手と響き合いながら絶えず微調整を繰り返す『進行形』の運動を指します。ゴールに到達しても、また新たな望みが生まれる。それは不満足ではなく、生命がさらなる高みへと拍動している証です。満たされないことを嘆くのではなく、動き続けている自らの躍動をこそ、誇りに思うべきなのです。 |
| |
 |
| |
| ■ 有言実行と不言実行について |
父から「不言実行に価値がある」と教わりました。中学生だった私は、『言葉にしてこそ意志が宿るのではないか』と、有言実行こそが正義だと信じ、反発しました。しかし、極楽寺の地で忍性菩薩の足跡を辿り、ダブルヨガという『対話の行』を深める中で、ようやく父の言葉の深淵が見えてきました。有言実行は、時に『認められたい』という承認欲求の盾になります。それに対し、不言実行とは、言葉というノイズを捨て、ただ純粋に行いそのものと一体化するプロセスです。『何をするか』を語るエネルギーを、すべて『今どう動いているか』という進行形に注ぎ込む。そこには、ゴールに到達した後の虚無感ではなく、絶えず更新され続ける生命の充実感があります。有言実行は、宣言することで自分を追い込み、他者を巻き込む「外向的なエネルギー」。これは「個」を確立し、世界に自分を証明しようとする躍動的なヨガです。これに対し、不言実行は、言葉を介さず、ただ黙々と行動(カルマ・ヨガ)に身を捧げる。これは「自分を認めてほしい」というエゴを削ぎ落とし、「ただその行いと一体になる」という高度な自己修練です。ヨガの文脈では、言葉(マントラ)はエネルギーですが、同時に執着やエゴ(アハンカーラ)を生む刃にもなります。言葉は時に、鋭い刃となります。良かれと思って放った言葉が、相手の心に反発の種をまき、不協和音を生むことがあります。中学生の頃の私が『有言実行』に固執したのは、言葉で自分を定義し、他者に認めさせたかったからかもしれません。しかし今、この極楽寺の地で忍性菩薩の背中を追う時、全く別の景色が見えています。それは、調和のためにあえて自分が『埋もれる』ことの圧倒的な美しさです。ダブルヨガにおいて、最高のパフォーマンスとは『私を見てくれ』という自己主張が消えた瞬間に訪れます。自分が土台となり、相手の呼吸に同調し、個としての主張を捨てて全体の一部になる。その時、二人の境界線は消え、言葉を超えた『静かなる共鳴』が場を動かし始めます。気づきとは、誰かに与えられるものではなく、整った場(フィールド)の中で自ずと芽吹くものです。自らが埋もれることで、皆さまの中に眠る純粋な躍動が引き出される。その不言の循環こそが、私が父の教えから学び、この由緒ある地で実践したいと願う『真の調和』です。 |
| |
 |
| |
| ■ 言動一致について |
私は決して奢ることも卑下することもなく、いつも晴れ晴れとした気持ちで日々を過ごしています。これが何よりも心を整えておくための習慣です。言動を一致させることは、心身の「チューニング」を合わせることです。「約束を守る」という当たり前の日常の習慣は、心のノイズを消し去る技術です。雑音(言い訳や不一致)が消えるからこそ、今まで聞こえなかった微細な変化や、相手の呼吸の揺らぎに気づけるようになるものです。自分に嘘をつかない人は、自分を卑下する必要がありません。他人に自分を認めてほしいという気持ちさえ生まれません。承認欲求とは、自分の中に空いた『不一致という穴』を他人の言葉で埋めようとする行為にほかなりません。私もあなたもそれ以上でないし、それ以下でもありません。この世界には完成していない進行形の人間しか存在していません。ただ、「言動を一致させる。」ただそれだけのことが、これほどまでに心をハレバレとさせ、視界をクリアにするのかと時々驚かされます。約束を守り、自分に嘘をつかない。この『当たり前』の積み重ねは、自分の中に揺るぎない背骨を通す作業です。軸が通れば、余計な不安や迷いというノイズが消え、世界は驚くほど静かになります。すると、今まで見逃していたような心の微細な変化や、季節の移ろいにさえ敏感に気づけるようになるのです。自分を卑下することも、誰かに認めてほしいと媚びることもありません。『私は、私の言葉の通りにここにいる』という圧倒的な自信。そのすっきりとした境地こそが、私がこの極楽寺の地で伝えたい『個』の在り方です。言い訳という霧の中に隠れるのではなく、陽の光を浴びた忍性菩薩の道のように、ただ真っ直ぐに、清々しく。その潔い心で他者と向き合うとき、私たちは初めて、真の調和を体験できるはずです。
|
| |
 |
| |
| ■ 変わり続けること |
| 現場の作業を完璧に覚え、自信をつけた人間が、フリーランスや独立開業を始めるタイミングがあります。しかし、多くが経営の舵を取った途端に壁にぶつかります。なぜか。それは、正しいことが一つだと思い込んでいることによるものです。確かに今までの環境でやってきたことはその人にとっての正解だったのかもしれません。しかし、その時とは環境が違うはずです。場所も店も料金体系やメニュー構成も違うはず。同じ料金でも場所が違えば、相場観が違います。相場観が違えば、人の印象は違います。世の中では毎日いろいろなことが起きます。事件が起き、災害が起き、戦争だって起きます。その度に人々の気持ちは変化し、意識は無意識に変化します。世の中は一刻も止まることなく動き、変化しています。表面的には同じに見えても、細かく見れば、毎日正解は変化しています。人々のニーズ(必要)もウォンツ(欲求)も、昨日と同じではありません。まさに諸行無常です。
同じ作業を、同じ品質で繰り返す。それは現場においては正解ですが、経営において「固定すること」は、死を意味します。世の中は一刻も止まることなく動き、変化しています。人々のニーズ(必要)もウォンツ(欲求)も、昨日と同じではありません。
例えば、ジーンズの定番である「リーバイス501」。長年そのポジションを不動のものにしているのは、実は時代に合わせて細かなパターン(型)を「変え続けてきた」からです。変わらないために、変わり続ける。変わらないポジションでいるためには、自らが変わる必要があります。
現場の作業と経営は違います。私は、現場作業と経営力の関係を「分子と分母」であると考えています。目の前の作業はあくまで分子に過ぎません。それを支え、成立させている分母こそが「経営力」です。経営力とは、単なる管理能力ではありません。社会全体を高い場所から見渡す視野感。言葉にならない「空気」を察知する直感。相手が真に望んでいるものを、先回りして察知する力。そして、これら、分母を形づくるのは、ひとえに「人間力」と「運」です。人間力を上げるのに、難しい理屈はいりません。
1、人が嫌がることをしない。
2、嘘をつかない。
3、約束を守る。
この当たり前の三つを徹底することです。これができれば、周囲から信用される人になります。それでは、どうやって運を味方につけるか。それは、言い換えれば「神様から愛される人になる」ということです。神様がいるのかいないのか、私にはわかりません。ですから、見えない大きな力だと解釈してください。もしあなたが神様だったとしましょう。あなたは、どちらの人に力を貸したいと思いますか?
1、自分の利益だけを考えて生きている人。
2、他人のこと、自然のこと、地球全体のことを考えて動いている人。
答えは明白でしょう。 |
| |
 |
| |
| ■正解を探さないこと |
正解を探していては永遠に幸せになれないと思います。現代の日本人は思考することを忘れてしまったように思える瞬間があります。多くの学校では考えることより正解を出すことが教えられます。会社に入社すれば、想像することより手順を守ることが求められます。だから、自分の考えを持たない人が多い。分からないことはネットで検索して答えを探す。だから大多数の意見に同調することしかなくなる。現代社会は自分の意見を持たなくても済まされる社会です。
調和とは、自分の意見を持たずに多くに迎合することではありません。自分の考えを持つことは、自分の考えで生きることに他なりません。自分の考えを持つことは、自分の人生に責任を持つことです。運命とか、環境とか、状況とか、いろいろあるかもしれませんが、そういった条件があったうえで、自分の人生を全うすることです。
そのためには自分の思想を持つこと以外方法はありません納得した人生を全うするためには、自分の考えを持つこと以外ないのです。会社や組織や社会制度に頼ることではなく、自分の足で立ち上がることです。幸せとは相対的な価値観です。人によって幸せのカタチは異なるものです。他人の真似をしても仕方ありません。他人の価値観はどこまで行っても他人の価値観です。ですから、自分自身の考えを持つことです。幸せになりたいなら、自分の思想が中心軸として存在していなければなりません。中心軸に沿っていれば、幸せを感じることができます。中心軸からから離れていれば不幸だということになります。基準がなければ、幸せにもなれないし、不幸にもなれないということです。
|
| |
 |
| |
| ■変人として生きる |
| そもそも私は変人ですが、「普通」という言葉が嫌いです。それは個性がないことで、存在する意味を失っていると感じさせられる言葉だからです。普通である必要などないし、ひとりひとり違っていることが当然だからです。就職したり、結婚したりするのが当たり前だと思うのも妄想でしかありません。そんなものは人間社会が後から作り上げた制度にすぎません。法を犯せば罪人ですが、法律を守っていればそれだけで善人ではありません。誰かが作った基準に自分を当てはめていくために私たちは生まれてきたわけではないはずです。自分と違う相手のことを変だと思ったり、周りと違うと自分が変なのかと不安になる人が多いのが不思議です。世の中は常に変化するもので、そこに固定化するための縛りを設けるしくみは人を縛り付け弱体化させるためのもの。もしも、自分が世界の支配者だったら、自分の立場を強固にして安定化させるためにそうするかもしれませんね。人生は一度きり。だから、限りある時間の中で自分にできることを探してその役割を精いっぱいやることでしょ。目の前の人に本気で向き合うことでしょ。死んだらまた生まれ変わるのかどうだか知りませんが、覚えていないなら意味がないわけです。限られた時間の中で、自分にしかできない役割を探し、精一杯それに応える。目の前の人と、真っ直ぐに、本気で向き合う。死んだ後に何があるかは分かりませんが、今この瞬間の「生」を鮮やかに刻まなければ、生まれてきた意味がありません。人生に求めるのは「長さ」ではなく、存在した意味を全うできたかという「質」なのだと信じています。はちゃめちゃでもいいのです。というより、はちゃめちゃこそが芸術の爆発です。他の動物や周りの人に迷惑をかけなければ、いいのだと思います。私が健康でいたいのはその役割に向き合うため。決してだらだらと意味もなく長生きしたいわけでありません。人生に求めるものは、その長さなのではなく、ここに存在した意味や役割を全うできるかどうかです。自分の考え方こそが自分であって、自分を大切にするということは自分の信念を貫くことです。そして自分の信念とは、誰かの役に立つことで、自分と周りのすべてがつながっているのだから、個ではないという概念です。私にとってこの信念こそ命よりも大切なもので、それをカタチにしたものがダブルヨガです。これをアートとしてやっています。 |
| |
 |
| ■心を置き去りにした法 |
日本は近代国家ですから、法治国家です。法治国家とは、近代ドイツ法学に由来する概念で、人の本性を悪であるとし、人の善性に期待せず、徳治主義を排斥して、法律の強制によって人民を統治しようとする法治主義によって統治される国家のことです。国家におけるすべての決定や判断は、国家が定めた法律に基づいて行われ、法を犯さなければそれでいいという考え方です。
明治維新はペリー来航から始まりました。鎖国をしていた日本は、外圧によって開国が迫られ、明治44年に不平等条約が締結されました。日本は、徳川幕藩体制が終わり、社会は様変わりしました。明治維新がもたらした文明は蒸気機関車など豊かな文明でした。しかし、同時に1000年遅れた低レベルの文化を押し付けられる結果となりました。文明と文化は異なる概念です。日本が押し付けられた文化。それは、法律違反しなければ何をしても構わないという民度の低い考え方です。西洋文明は基本的に、「自分さえよければ何してもいい」という考え方。誰も見てなければ、人のモノを盗んでもいい。自分さえ良ければ人に迷惑がかかっても構わない。この考え方で、他国を侵略し略奪し続けて、列強となったのがヨーロッパ諸国でした。私たちが押し付けられた「法治国家」という枠組みは、元を辿れば「人間の善性を信じない」という絶望から生まれたものです。明治維新という文明開化の裏側で、私たちは蒸気機関という便利な「文明」を手に入れた代わりに、千年以上かけて育んできた「徳」という豊かな「文化」を、どこかへ置き去りにしてしまいました。
江戸時代までの日本では、上下関係なく皆が自由に意見を交換し、皆で決めて皆で行動するという考え方によって社会は成り立っていました。それぞれが自分のできることで皆の役に立つ。できないことは他にお願いし、他を尊重して御恩返しをするという人間関係の中で豊かな社会が続いていました。しかし、開国を迫られ、社会は西洋型支配構造を押し付けられました。西洋型支配構造は、支配と隷属による構造。支配する者と支配される者に分断されるピラミッド型社会。これによって、抑圧されて抵抗するというストレスが生まれることになりました。西洋列強が世界を席巻した背景にあるのは、「自分さえ良ければ、他者を奪ってもいい」という支配の論理です。かつての日本はそうではありませんでした。上下の隔てなく意見を交わし、それぞれが「自分にできること」で誰かの役に立ち、受けた恩を返していく。支配と隷属のピラミッドではなく、互いを尊重し合う円のような社会が、そこには確かにあったのです。
現代は、形ばかりを取り繕う時代です。「法を犯さなければ、それでいい」そんな殺伐とした考え方が、今の日本を覆い尽くしています。◎◎ハラスメントという言葉で人間関係を縛り、表面的な善悪の二元論で人を裁く。しかし、大切なのは「形」ではなく、その奥にある「心」ではないでしょうか。昭和の頑固親父が、時に声を荒らげ、時に厳しく道を説いたのは、そこに「相手への本気の心」があったからです。怒ることが悪なのではない。暴力を振るうことが悪なのではない。一番の悪は、そこに「心」がないことです。相手を思いやる心を無視したまま、法律やルールという薄っぺらな盾で自分を守り、他者を攻撃する。そんな風潮が、人間性を劣化させているのだと感じてなりません。 |
| |
 |
| ■八百万の神に頭を垂れる |
私の家には巨大なブッダが鎮座しています。私は家のあちこちに仏像やガネーシャ、シヴァ神や十字架をディスプレイしています。美術と宗教は密接に関係しています。素敵なものに囲まれてハッピーに生活しています。正直、アート作品のコレクションとして集めだしたモノたちですが、今となってはそれ以上の価値を感じています。図形や彫刻の「形」が、周囲のエネルギー(光や電磁波、空気の振動など)と共鳴したり、干渉したりして、特定のリズムや質を作り出すことは科学的にも理にかなっています。
多くの芸術は宗教と密接して発展してきました。中でも偶像崇拝は、宗教的な意味合いを込めて作られた信仰の対象と定義されます。偶像崇拝を禁止している宗教は、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教などがあります。仏教も偶像崇拝禁止が本質ですが、実際には仏像が作られています。私が仏像を飾っているににはもうひとつ理由があります。もともと人間として至らない自分だからこそ、尊い形を目の前に置くことで、傲慢になりそうな心を律しているとも言えます。
「存在する」とは、一体どういうことでしょうか。目の前にAさんがいます。あなたはAさんのことが見えるし、触ることもできます。ではスマホで撮った動画のAさんはどうでしょうか?Aさんは見えますが触れることなどは出来ません。次に夢の中のAさんは?夢の中なら見えますが、夢から醒めれば見ることもできなくなります。このように存在には濃度があり、存在するか否かの二項対立的なことではないことがわかります。神とは不可視ですが強い存在であり、逆に言えば可視化できる神は偽物であるともいえます。預言者やモーセでさえ神は見ていません。人間の五感で感じることができないからと言って存在を否定することはできません。ですから、神という存在がいるのかいないのか私にはわかりません。私の結論は、いてもいなくてもどちらでもいいということになりました。でも、彼らはいつも何かしらの教えを私にくれています。私の場合、嫌なことや腹の立つこと、辛いことや悲しいことが日々襲ってきますが、時々ヤフオクやメルカリで仏像を購入します。そうすると必ず何かしら嬉しいことが訪れます。
偶像崇拝は、ひとつの絶対的な存在だけが正しくそれ以外の存在は否定するといった方針の宗教に多く見られますが、日本には八百万の神が存在して、すべてに魂が宿るという感覚があります。アニミズム(有霊観)とは、人間だけでなく、動植物や無生物にも霊魂が宿っていて、物体から離れても独立して存在しうるという観念のことです。もともとは霊的存在への信仰として、人類学者タイラーが提唱した単語で、「anima」はラテン語で霊魂という意味です。多くの宗教のように、世の中で「正しい」と思われている考え方も無数にあります。それぞれが正当性を訴えるために常に争いが生まれてきました。人の数だけ物語があります。同じ場所に居合わせたとしても、それぞれが認識した事実は異なるものです。国境がなくなり考え方も多様化した現代を生きる私たちに求められているのは、自分以外の考え方も受け入れる努力なのかもしれません。 |
| |
 |
| ■仕事よりこっちのほうが面白いけど・・仕方ない |
毎日つまびくギターは、かれこれ50年以上も上達しないままポロポロしています。オンとオフのけじめのない日常生活の中で残った趣味はギターくらいです。仕事の合間に気分転換できるのがいいです。結局数時間を要するスキーもサーフィンも止めました。言葉が通じなくてもく、気持ちを揺さぶることができるツールとして音楽は最高です。人だけでなく猫にも伝わります。へたくそですが、それでも猫は耳をそばだてて聞き入ってくれます。意識を向けてその猫に音楽でメッセージを直接的に投げかけるとゴロゴロしたまま伸びをしたりします。こうやって意思の疎通を図ることができます。イライラしてた奴もゆったりまったりしてくれたりします。マイナーからメジャーに移行したり、セブンスやディミニッシュなどをエッセンスに加えて感情を揺さぶると、それに反応してくれます。根っこはうるさい系のロックですが、猫はどうもロックはあまりお気に召さないようで・・・・ジャンルを問わず、曲を作ったりもしますが、音楽ってサイコーに面白い創作活動です。
音楽は瞬間芸術です。ダブルヨガも瞬間芸術ですが、私の仕事の仕方も言ってみれば瞬間芸術です。その場その場でサイコーのやり方でサイコーのパフォーマンスを常に求めています。自分との戦いですからゆったりすることもできませんが、マゾ的な性格なのでしょうね。「瞬間芸術」とは、「時と場所を限定した瞬時の演技・演奏によって表され、それが直ちに消滅するもの」です。感情の動きを表現する瞬間です。一瞬の後に消え去り、絵と違って修正が効かないものですが、それは確実に人の心を動かすものです。音楽も芸術も仕事もエネルギーは波動であって粒子でもあるというまさに量子力学です。量子力学で説明するなら、量子は波の状態で存在し、第3者が観察した瞬間に粒子になるわけですが、相手がそれを認識して初めてカタチになります。絵画や写真は2次元アート、彫刻など立体のものは3次元アート、そして、音楽は時間の経過が絡みますから4次元アート。だから音楽は余計に難しいです。私にはさっぱりわかりません。だから、音楽は私には難しすぎます。ずーっとこのままポロポロのままなのでしょう。でも、心は求められるから答えようとするわけで、猫が求めてくれてるから私はこれを楽しみながらやっています。ですから、私にとっては、趣味も仕事も区別がありません。ONもOFFもありません。全部同じことなのです。人はそれをキチガイとかバカとか変人と言います。こういう言葉を投げかけられると嬉しいものです。普通っていうのはくそくらえですからね。真面目に型にはまっただけの何の魅力もない人でないよって意味ですから・・・。でもなんでみんなこういう感じで生きないのか・・・不思議です。いつも疑問に思っていることのひとつです。 |
| |
 |
| ■猫たちが教えてくれたこと |
私は、たくさんの猫たちと人生を共にしてきました。彼らとの共同生活は、単なる飼い主とペットの関係ではなかったように思っています。マイナスのエネルギーから私を護ってくれたり、大切な真理を気づかせてくれたりする、一心同体のパートナーでした。猫は言葉を持ちません。だからこそ、こちらの「観察力」や「非言語のコミュニケーション能力」が、ありのままに試されます。言葉による思い込み(プラシーボ効果)が通用しない世界で、意識のエネルギーをどう送り、どう受け取るか。それは、テレパシーにも似た、純度の高い対話の訓練でもありました。
時には、彼らが私のヒーリングの師となることもありました。病院で「打つ手なし」とされた猫を、昼夜を問わず手を当て続けることで、何度も復活させてきました。もちろん、それはほんの少しの延命にすぎないのかもしれません。けれど、データや数値だけで淡々と処理される今の医療システムの中に、どれだけの「愛」があるでしょうか。機能的なビジネスと化したドライな世界で、私はただ、目の前の命と泥臭く向き合っていたかったのです。
私は、猫が生まれてから亡くなるまでの数年間を共に過ごすわけですが、人間の一生の縮図のように見ています。彼らは何を思い、何を求め、何を学び、何を感じて一生を過ごすのか。細かくはわかりませんが、親猫が亡くなり、その子供が繋ぎ、またその子供が繋いでいます。種が存続していくのを俯瞰した視点で観ることができます。時に、自分が神のように支配する立場にあることも実感しました。彼らに食事を与えないこともできますし、安楽死させることだってできる立場です。でも、私の心は彼らを支配することはできなかった。猫たちとの共同生活の中で、私は、上下という感覚が嫌悪すべき概念だと感じ、それまで以上に支配というものを拒絶するようになったのかもしれません。彼らが幸せであることが私にとっての幸せでした。自分の将来に不安を抱かなくなったのも、愛することの本当の意味を感覚的に理解できたからなのかもしれません。 |
| |
 |
| |
| ■「天上天下唯我独尊」 |
「天上天下唯我独尊(てんじょうてんがゆいがどくそん)」この言葉を「自分だけが偉い」という独りよがりな意味で捉えるのは、実は大きな誤解です。本来の意味は、「この広い宇宙の中で、代わりのきかない私たちの存在は、それだけで尊い」ということ。我とは、私ではなく、私たちと解釈すべき言葉です。「天上天下唯我独尊」の「我」とは、単なる「自分一人」のことではありません。厳しい六道の輪廻を経て、今この瞬間に「人間として、共に出会えた私たち」を指しています。ダブルヨガのマットの上で向き合う二人は、数え切れない縁の中で奇跡的に巡り合った「私たち」です。
今、目の前のパートナーと呼吸を合わせていること自体が、気の遠くなるような確率の中で許された尊い時間です。一人が「独尊」なのではなく、向き合う二人が共に「独尊」である。その二人が手を取り合うことで、一人では到達できない調和(ヨガ)が生まれます。「私」という壁を超えて、「この世に生を受けた私たち」という大きな命の尊厳を、ダブルヨガを通じて肌で感じる。それこそが、誤解のない真の教えの体現ではないでしょうか。
私自身は何度か出家しようと思ったことがあります。うちはもともと浄土真宗なので、出家というものがありません。結局、家族の反対もありましたし、環境など何かしらの力にすがらなければ、自分を見つめることができないというのも、少しだらしない気もして、結局、俗世で過ごすことにしました。要するにすべての物事は捉え方なのだろうと思い、日常の中で自分自身を客観的なスタンスで見直す習慣を心がけるようにしたわけです。だから私は今も修行の身であると思っています。 |
| |
 |
| |
| ■歳を重ねるということ |
現代は、若さばかりがもてはやされる時代です。肌の張り、瞬発力、新しいものを吸収する速度。それらが失われていくことを「衰え」と呼び、マイナスとして捉える風潮があります。しかし、私は歳を重ねることを、一度もマイナスだと感じたことはありません。どこを見るかという「視点」の違いに過ぎないように思います。若い頃の自分は、まさに「尖った刃物」でした。勢いはあっても、角が立ち、自分というエゴ(分子)を主張することに必死でした。しかし、時を経て多くを経験しました。成功も、裏切りも、神仏への祈りも、いろいろと積み重ねる中で、その角は取れ、代わりに深い艶と重みが宿るものです。マッサージを例にとっても、若い頃のそれは技術ですが、今の私が行うのは祈りです。余計な力が抜け、自分を「空)」にできるようになった今の方が、相手の深い層に届く響きは、確実に強く、純粋になっているはずです。肉も少し熟成させた方がうまいのと同じです。
花が咲いている瞬間だけが人生のピークだと考えるのは、あまりにも寂しいものです。花は散り、実を結び、最後は土へと還る。その土がまた次の命を育む。この「大きな循環(タオ)」の視点に立てば、歳をとることは、宇宙の理に一歩ずつ近づいていく、喜ばしいプロセスです。三島由紀夫が肉体の完成に執着したのは、滅びゆくものへの抵抗ではなく、自らの「美学」を完結させるためでした。私もまた、若さにしがみつくのではなく、今の自分にしか出せない「気配」や「言葉の重石」を大切にしたい。若さという「形」への執着を手放したとき、人は本当の意味で自由になれます。「何者かにならなければ」という焦りが消え、ただ「納得のいく一生を全うする」ことに集中できる。その透明感こそが、若さには出せない「永遠の輝き」の正体です。視点を変えれば、老いは自由への道となります。鏡に映るシワを数えるのをやめ、内側に蓄積された智慧と慈愛の深さを味わう。若さを誇るのではなく、老いを慈しむ。その豊かな視点を持つことができれば、人生というアートは、晩年になればなるほど、より深く、より美しく完成へと向かっていくはずです。 |
| |
 |
| |
| ■三島の切腹と雄カマキリの献身 |
「幸せになりたい」と願うとき、私たちの頭には、何かを手に入れ、自分を満たし、長く生き延びる姿が浮かびます。しかし、歴史に名を残したある作家の最期と、自然界の小さな生命の営みを見つめると、全く別の「幸せ」の形が見えてきます。
一人は、作家・三島由紀夫。彼は強靭な肉体を作り上げ、自らの信念を貫くために、衆人環視の中で自ら命を絶つ「切腹」を選びました。言葉だけで理屈をこねているだけの知識人たちをよそに、自らは命をもって彼の信念を証明したわけです。これこそが「丹識」というものなのでしょう。人生をひとつのアート作品として演じ切ったわけです。現代の合理的な視点から見れば、それはあまりに激しく、理解しがたい死かもしれません。しかし、彼は「自分の命を、自分が信じる最も美しい大義のために使い切る」という瞬間に、一人の人間としての究極の充足感を感じていたといいます。
もう一つは、カマキリの雄の姿です。カマキリの雄は、交尾が終わったあと、雌にその身体を食べられてしまうことがあります。逃げることもできるはずの彼らが、自ら雌の口元へ身体を差し出す。それは「自分が生き残ること」よりも、「自分の命を次の世代の糧(エネルギ―)として捧げること」を選んでいるかのようです。
三島の切腹も、カマキリの献身も、共通しているのは「自分一人の生存(エゴ)」という執着を捨て、もっと大きな「物語」や「循環」の一部になろうとした点にあります。三島由紀夫が求めた「大義に殉ずる至福」と、カマキリの雄が交尾の末に雌に喰われる「生命の献身」。これらは、個体の生存(エゴ)を超えた、「生命のプログラムの完結」という一点で繋がっています。自分の得だけを考え、損をしないように流されて生きることは、安全かもしれません。しかし、それではいつまで経っても「失うことへの恐怖」から逃れられません。一方で、自らの命を「誰かのため」「何かのため」という大きな流れに投じ、自分を使い切る覚悟を持てたとき。その瞬間に訪れるのは、恐怖ではなく、深い「納得」と「静寂」です。自分という小さな殻を突き破ったとき、景色は一変します。それは美学であり、気高さの証明です。永遠に輝く星になるということです。
考えてみれば、「自分のために幸せになろう」と躍起になっているうちは、幸福は常に「手に入らない対象」として逃げていくということです。「人生の目的」や「幸福というゴール」を設定することは、未来に人質を取られ、今を「手段」に貶める行為に他なりません。幸せとは、得るものではなく、使い切ることなのかもしれません。
|
| |
 |
| |
| ■ダブルヨガ道場を立ち上げた理由 |
「自分のやりたいことをやりなさい」そんな言葉が溢れる現代、どこか違和感を感じることがあります。自分の損得だけを優先し、直接自分に関係ないことはスルーする「自己中心主義」が、自由という名のもとに広がっている気がしてならないのです。人は、ただ成功するために生まれてきたのではありません。授かった能力を使い、誰かに喜ばれるために、私たちはここにいます。「自分が何をしたいか」よりも、「誰が自分に何を求めているか」に耳を澄ませること。そこにこそ、真実があるのではないでしょうか。神様がいるのかいないのかわかりませんが・・もしもあなたが神様だったら・・・・自分の事ばかり考えている人より、周りの人を幸せにしようと頑張っている人を応援するでしょう。運とはそういうものではないかと思います。誰も見ていないから。ばれなきゃかまわない。そんな考え方もありますが、もしも神様が見ているとしたら、他人が見ていなくても、努力して周りの幸せを考える人を目指すでしょう。いるかいないかわからない神様ですが、いる可能性が完全に否定できない存在なら、私は損得勘定においても、「いる」という前提で行動したほうがいいと思います。
人を導く場面でも、近頃は「ただ褒めること」が良しとされています。何かを教えるという局面において、人の良いところを見るというのはもちろん大切な考えです。でも「どんなことでもほめる」ということには疑問があります。なんでもかんでもほめてばかりいたら、いつかその人は褒められないと何もできない人間になってしまいます。良いところを見つけられなければ知らん顔したり、明らかに状況を悪化させる態度をとっていても何にも言わない。自分の事ばかり考えてるから、周りの状況を見ようとしない。めんどくさいことにはなるべくかかわらないほうがいい。こんな風潮が蔓延しているのも現代です。もちろん良い面を見るのは大切ですが、何でもかんでも褒めてばかりいては、人は「賞賛」という報酬なしには動けない、脆い存在になってしまいます。
相手を信じているからこそ、ダメなことは「ダメ」とはっきり伝える。ダメなことはダメってしっかり伝えるのも、愛だと思います。面倒な関わりを避け、知らん顔をするのは愛ではありません。その人を信じているからこそ、厳しいことも言えるのです。愛の本質が分からない自己中心主義の弱い人間を増やすことになってしまいます。厳しさの中にこそ、相手を一個の人間として尊重する真の愛が宿るのです。
かつてマッサージは、自らの徳を積むための行為でした。目の前の人に精一杯尽くす。積んだ徳は来世に持っていける。徳は子孫に引き継がれるそうです。それは単なるビジネスの道具ではありません。25年以上マッサージスクールを運営してきましたが、これはなるべく現代人の感覚に合わせた感じで運営しています。ただ、これでは本当に伝えたいことが伝えられません。どうも「俺は客だから俺の知りたい情報だけを明確に説明してほしいだけなんだよ・・」という気持ちが見え隠れします。一番伝えたいことが伝えられません。現代の「効率」や「客としての権利」を求める空気の中では、どうしても伝えきれない本質がありました。だからこそ、私は「ダブルヨガ道場」を立ち上げました。 |
 |
| |
| ■信じることと疑うこと |
信じることと疑うことは一般的には反対の意味を指します。信じることはいいことで、疑うことは悪いことだという認識です。しかし、よく考えてみると信じることと疑うことは反対語ではなく同義語です。私たちはわかりきってることは信じているとは言いません。知っていると言います。信じるという言葉は、分からないものを指す言葉だからです。厳密に言えば、信じることもわからないことも、どちらもわからないということです。バランスの違いに過ぎません。私たちはどうなるかわからない時間を日々送っています。人生とは先のことはわからない時間を過ごすということです。不安を感じるのは当たり前のことです。だから、何かを信じて歩みを進めるしかありません。私は飛行機が苦手なタイプですが、その時には無事に着陸すると信じるしかありません。信じるからこそ上手くいかなかったときに裏切られたと感じます。信じなければ傷つくこともありません。それでも何かを信じなければ明日を生きる勇気も湧いてきません。希望、信念、志。これらはある時、失望、後悔、恐怖に変わる可能性を秘めています。信じることは、強さであって弱さでもあるということです。だから、信じてもいいし、疑ってもいいわけです。東洋医学的な見地から見れば、この二つは「陰」と「陽」の躍動です。東洋の智慧が教えるのは、「信じる」だけでも「疑う」だけでもない、その真ん中に立つ「中道」の姿勢です。般若面が、見る角度によって怒り(陽)にも悲しみ(陰)にも見えるように、私たちの心もまた、信じる情熱と疑う冷静さの間を揺れ動いています。その揺らぎ自体を否定せず、どちらかに偏りすぎない状態を保つことこそが、心身を養する要です。何を信じて何を疑うかは自分次第です。それは自分の心を映す鏡に過ぎません。心がざわつくなら、静かに目を閉じて自分に向き合って内面を探求するのがいいと思います。それでも考えがまとまらないなら、施術を受けてみてください。きっと頭の中が空っぽになります。 |
 |
| |
| ■自分の顔に責任を持つこと |
若い頃は、面食いと言うやつでした。どうしても「顔立ち」の良し悪しばかりに目が向いていました。確かに、若いころは、顔の作りが人生を左右します。モテる人は多くの場合、これによるものでしょう。しかし、何年か経つと、「昔はあんなにカッコよかったのにね・・」という残念なパターンに陥る人もいます。逆に、昔は特に何も目立たなかったけど、とても輝いている人に出会うこともあります。人の顔は、単なる肉体のパーツではありません。その人が何を信じ、何に怒り、誰を愛し、どんな時間を過ごしてきたか。顔は、数十年という歳月の積み重ねが刻み込まれた履歴書です。いい顔をしている年寄りには、人間力を磨き、納得のいく一生を全うしようと、筋を通して生きてきた顔には、共通点があるものです。逆に、不満を外にぶつけ、エゴを肥大化させ、流されるままに生きてきた顔には、隠しきれない淀みが滲み出ます。
三島由紀夫が肉体を鍛え抜いたのは、自分の言葉に責任を持つためでした。同じように、私たちは自分の顔に責任を持たなければなりません。言葉でどれほど立派なことを言っても、その顔に嘘や迷いがあれば、きっと顔に現れます。
「花の色は 移りにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせし間に」
ここには、「ただぼんやりと長雨(ながめ)を眺め、物思いにふけっている間に、一番良い時期が過ぎてしまった」という後悔の念が込められています。この歌には、自分自身の内面を澄んだ目で観照することなく、外部の状況に「流されている」間に、命の盛りを使い切らずに終わってしまうことの虚しさを説いています。「花の色(美しさ)」が色あせてしまったという事実は、誰にも止めることができない宇宙の循環(タオ)です。どれほど若さにしがみつこうとしても、季節が巡るように、生命の形は必ず変化していく。その「無常観」が根底にあります。長い人生において、このように感じる時期もあるものです。今の私には、この嘆きは深みを生むための大切なプロセスにも見えます。
シワの一つひとつは、苦難を乗り越えた勲章です。眼差しの穏やかさは、清濁を併せ呑んできた慈愛の証です。私は、いい顔をした年寄りになりたいと思います。それは、単に機嫌よく生きるということではありません。自分を放ち、循環(タオ)の中に身を置き、最後の一瞬まで自らの人生というアートを誠実に演じきること。その覚悟が刻まれた顔こそが、何物にも代えがたい「最高の造形」なのだと信じています。若さというメッキが剥がれたあとに、どのような「光」を放てるか。鏡の中の自分を俯瞰し、今日も私は、自分の顔に責任を持てる生き方を選びたいと思います。 |
| |
 |
| |
| ■支配せず調和する |
現代の潮流は、どこか「人間中心主義」に偏りすぎているように感じます。人間こそが自然界の頂点であり、他の生命は人間に奉仕するために存在している——。そんな傲慢な前提のもとに、人為的な開発と管理が進められてきました。昨今、ようやく環境問題が叫ばれるようになりましたが、その解決策さえも「優秀なAIによってすべてを管理する」という、さらなる支配の方向へ向かっています。人間にとっての「便利」を突き詰めれば、自然はさらに削られていきます。逆に、地球環境だけを優先すれば、人間は邪魔な存在になってしまいます。管理し、対峙しようとするからこそ、そこには分断と争いが生まれます。そこには、真の意味での「調和」はありません。
私たちは自然を管理する存在ではなく、自然という巨大なキャンバスに描かれた、一筆の彩りにすぎません。自分を「世界の中心」に置くのをやめたとき、はじめて他者や万物との本当のつながりが見えてきます。この「対峙」ではなく「融合」の感覚こそが、最終的に「豊かさ」を享受する方法です。効率や管理といった冷たい言葉に縛られるのではなく、もっと泥臭く、もっと生命の温もりに触れることに、もう主腰目を向けてみてはいかがでしょうか。
そもそも、「人間は、自然界で最も優れた存在なのだろうか」そんな問いが、いつも心のどこかにあります。科学的な視点に立てば、人間がいかに「限定的な存在」であるかは明らかです。例えば、聴覚ひとつとっても、犬や猫は人間の数倍の音域を聞き取り、私たちが静寂だと信じている場所で、豊かな音の世界を生きています。電気クラゲは自らエネルギーを生み出し、毒虫は体内で複雑な化学物質を精製します。空を飛ぶ鳥の視力、深海で水圧に耐える魚の体、土の中で生態系を支える微生物の分解能力。これらは、どれほど人間が知恵を絞っても、自身の肉体ひとつでは決して成し得ない「驚異的な科学」です。
それなのに私たちは、自分たちこそが進化の頂点に立ち、自然を管理し、支配できる存在だと勘違いをしています。他の生命が持つ驚異的な能力を無視し、自分たちの基準に合わないものを「下等」と決めつける。その傲慢さが、今の世界の歪みを生んでいるのではないでしょうか。人間は万能ではありません。むしろ、他の動植物が持つ多様な能力に支えられ、生かされている「大きなパズルの一片」にすぎないのです。私たちは、地球に守られ、太陽に育まれ、目に見えない無数の命に支えられて生きています。それなのに、あたかも人間が頂点に立ち、他の生命を「役立つか否か」という物差しだけで測る。それはまるで、かつての天動説のように、自分たちの都合で世界を解釈しているにすぎないのではないでしょうか。私は哲学者でも、厳格な菜食主義者でもありません。ただ、目の前の命と向き合う一庶民として、「人間さえ良ければ、それでいいのか」という疑問を抱き続けています。幼い頃、父から「一寸の虫にも五分の魂」と教わりました。今、私はたくさんの猫たちと暮らしてきましたが、彼らと過ごす時間は、言葉を超えたコミュニケーションの豊かさを教えてくれます。感情を伝え合い、心を通わせる。純粋で、穢れのない彼らの魂を見ていると、人間がそれより優れているとは到底思えないのです。
近代社会は、目覚ましい文明の発展と経済的な富をもたらしました。けれど、その引き換えに失われていく自然や、犠牲になる生き物たちの姿を目の当たりにするたび、胸が締め付けられます。世界を動かしている「富」や「豊かさ」という言葉。もしそれが、単にお金のことだけを指しているのだとしたら、あまりに寂しいことです。お金よりも大切なもの、目に見えないけれど尊いもの。それらを忘れてしまった先にあるのは、奪い合いと、果てしない繰り返しの歴史かもしれません。人間が真に「優れている」と言えるとしたら、それは万物を支配することではなく、万物への感謝を忘れず、謙虚に、共生していく知恵を持ったときではないでしょうか。 |
| |
| |
| |
 |
| |
 |